SHINZEN(しんぜん)の「共にのつどい」の名前には「共に生き、共に考えよう」という意味がこめられています。 SHINZEN(しんぜん)では毎月、施設の先生、あるいは障害者ご本人や、お母さん、他のボランティア・グループの方々をお呼びしてお話を伺っており、その内容は、どれも感銘深いものばかりでした。 講師の方は、淡々と語りながらも、一つ一つの言葉の中には、ほとばしるような思いがあり、私たちSHINZEN(しんぜん)スタッフにも熱い情熱が伝わってくるのです。 時には、胸を切り裂かれるような悲しみ、苦しみの淵に立ちながらも、それを超えてきた道のりは聞く者の心をゆさぶりました。 どうやってその壁を越えたのだろうか。どうしたら、そんなにも変わらない心で尽くせるのだろうか... そこには、生きていく上で大切なものが珠玉のようにきらめいていました。 SHINZEN(しんぜん)ではこれから、ブログを通して「共にの集い」の内容を紹介していきます。

SHINZEN(しんぜん)偏見や苦労を経て今が幸せ

SHINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

偏見や苦労を経て
今が幸せという通所者に学ばされます

c 星野 由美子  「かもめ第一工房」所長 94年5月

 精神障害者とは、早い話が精神病の患者さんです。
皆さん、精神病というと良いイメージはないでしょうね。
マスコミの報道などで恐いという思いを持っているかもしれませんね。確かに報道されている事件は、精神障害者のほんの一部の場面ではあります。
しかし、パニック状態時は、とても短いのです。

 多くの方が、あきれるほど人が良く、真面目で優しいのです。
ただ神経が過敏で、普通の人が二つぐらい周りに気を配るとすれば、十ぐらいも気配りをしています。
ストレスを抱えすぎたとき、鋭敏すぎる神経故に、逆に周りのことが不安になり、自分の悪口を言っているように思えたり、自分を傷つけようとしていると思えたり、恐怖のるつぼに入ってしまい、そんなときに事件が起こるのです。
しかし、それもサポートする人がいれば防げますし、医療で確実に治めることもできます。

 精神病の患者さんというのは実はとても数が多く、全国の病院の総ベット数の3分の1を占めています。
これは一つには入院期間が長いこともあります。
3ヶ月はざらで、若い人でも1〜2年入院している人は多く、収容時代といわれた昔は50年という人もいました。

 厚生省の調査では現在、入院している人の5・5割は地域社会で暮らしていける人であると報告されています。
それでも退院出来ないのは、精神病の患者さんは、家族の承認がなければ退院出来ないからです。
つまり家族が受け入れられない状態にあるということです。

 いずれにしろ長い期間入院するため、退院後、社会復帰するにも元のペースをつかむには、多くの時間が必要です。
退院後の受け皿としての施設に、デイケアセンターや共同作業所があります。
「かもめ第一工房」は共同作業所で、ここはある程度個人のリズムを整えて仕事をやりたいと思っている人のための場です。
かもめには現在20〜29人ぐらいの人が通所しています。

 やっていることは、内職仕事がほとんどで時給200円ぐらいにしかなりませんが、なにが大切なのかというと人間関係なのです。
まず人と出会い、話をする。
大勢の人と一緒にいることに慣れ、人間関係をつくることを、それぞれのリズムでもう一度取り戻していくのです。

 簡単な内職をし、昨日のことを話したり、音楽を聞いたり、笑い、ケンカし、泣き……だんだん人間関係に力がつき、体力も戻ってきた人の中で、もう少し仕事をやりたい人は、グループで近くの老人ホームに2時間くらいの清掃に行きます。
こうしたことを安定して出来るようになり、もっと仕事をしたいという人は社会復帰していきますが、残念なことにここまでたどり着く人は少ないのです。

 ここで、かもめに通っている一人の女性の通過してきた人生の一端をご紹介します。
42才のその方は、23才の時に発病して入院。
退院後に結婚し子供をもうけながらも、また再発し入院。
その間にお子さんが亡くなり離婚。
退院後、再婚しましたがまた再発し離婚という人生をくぐって来ました。

 彼女は実家からバスで5分の所のアパートに暮らしていますが、数年前まではその実家に足を踏み入れることさえ出来ませんでした。
訪ねて行くと、お母さんが玄関で少し話をして、お父さんは奥から出ることもなく、「お父さんは疲れているから帰りなさい」と母親にさとされてしまいます。
弟や妹は、姉がいることさえ隠しています。

 「悲しい」とよく泣いたりしましたので、親に尽くしてあげなさいとアドバイスしました。
季節の食べ物や花を持って行ったり、好物を届けたり、そういう事を2年ぐらい続けたある日、お父さんが「よく来た」と玄関に座らせてくれたのです。
さらに半年後ぐらいに、ついに茶の間に入れてくれたのです。

 今でも、妹や弟は認めてくれないので、正月三が日は行けませんが、4日には両親と過ごせるようになりました。
最近は、洋裁教室に通ったり、デイケアセンターで英会話を習ったりしています。

 そんな彼女が「今が一番幸せだ」と言うのです。
こんなにも苦労をした人がいるのだろうかという彼女が、自分の人生を受け入れた上で、そう言っているのを聞くと、私はいい仕事をさせてもらっているなと思いました。
障害を持った人が偏見や苦労を経て、今が幸せという気持ちに、人間として大切なものを学ばせてもらっています。

〈給食サービス〉おいしいの一言がとても嬉しいボランティア。和気あいあいの一コマです

料理自慢のメンバーがつくる手料理は何よりのごちそう

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SHINZEN(しんぜん)望んだ訳でもなく、そのように生まれ

SHINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

望んだ訳でもなく、そのように生まれ、
素直に懸命に生きる姿に心打たれます

c 中村 直子  ほんまち作業所 主任指導員 98年4月

 ほんまち作業所は、昭和63年4月に知的障害者のための通所作業所として開設しました。
現在は12人の人が通っています。
 しんぜん会さんには、開所当初からボランティアに来ていただいて、大変に感謝しています。
初めは作業の手伝いをしていただきましたが、現在は、月1度、給食サービスをして下さっています。
まず、しんぜん会の福島さんから取りたての野菜が送られてきます。
この野菜が無農薬の本当においしいものなんです。
そして、その野菜に合わせて季節季節のおいしい料理をしんぜん会の方が、作業所で作って下さるのです。

 作業生は一人暮らしをしている人が多いので、皆とても楽しみにしているんですよ。
障害の重い人ほど食べる力も衰えるのですが、あっという間に皆と同じに食べるのを見ると、言葉は無くても本当においしいんだなあと感心しています。

 先ほど、重度の障害と言いましたが、知的障害は3段階に分けられています。
重度は1〜2度の人で精神年齢3〜4歳、中度は3度で精神年齢6〜7歳、軽度は4度で12〜13歳の精神年齢といわれています。

 重度であるほど、周りは大変だと一概には言えません。軽度の人は、社会に出る機会が多いだけに、好奇心も旺盛で、タバコを吸ってみたり、盛り場に行くこともあります。
しかし、いざとなるとやはり弱い所があり、むしろ軽度の人がトラブルに巻き込まれることが多いようです。

 最近、作業所でとても考えさせられることがありました。
50代の男性Tさんは、以前ペンキ職人をしていた人でしたが、半年ぐらい作業所に通っていました。
職人さんをしていたということで、言葉なども荒い人でしたが、作業所に来られるようになって、顔もとても穏やかになってきたんです。
そのTさんが、作業所を数日休んだので、区の保護課の人に様子を見に行ってもらったところ、吐血で亡くなっていたのです。

 身元引受人もおらず共同墓地に入りました。
Tさんは、通帳を持っていなかったので、お金の出入りもはっきりしていませんでした。
普通の人でも生きにくい世の中ですけど、障害を持って一人暮らしをしていると、いろいろな人が寄って来ることもあります。
しかし、作業所では個人の生活の場までは入っていけないのです。
つくづく支える人の必要性を感じました。

 そうした中、現在、禁治産後見、準禁治産補佐という制度の改正作業がすすめられていますが、新たに生まれようとしている「成年後見」制度に期待したいですね。

 未成年者に対する後見は、通常、その財産を管理したり、教育や住む場所を決めているのは親です。
これに対して成年後見というのは、20歳を過ぎて成人した人を対象にした制度です。
例えば、知的発達障害や、精神障害を持った人、痴呆性高齢者の人を対象にしています。

 すてっぷ法律相談員の弁護士、高村先生は、後見の本質は、代行決定ではないかといわれています。
物事を自分で決定するためには、判断能力を必要としますが、この判断能力が不十分な場合には、他人が代わりに物事を決定することを認めることです。
 後見人制度も、まだまだ検討事項が多くありますが、親亡き後の財産管理等、法人後見に任せる道には期待しています。

 最後に一つお話ししたいのは、知的障害で精神年齢が4歳ぐらいといわれても、年齢相応の部分はあるということです。
言葉や字を書く能力は、劣っていたとしても、「自分を受け入れているのか、いないのか」というような感受性の細やかさは驚くほどです。
 本物か偽物かを見極めるアンテナも、するどいのです。
それだけにごまかしがききません。

 望んだ訳でもなく、そのように生まれ、素直に懸命に生きている姿を見るたびに、いじらしく、けなげに思います。
私にとって、通所生と共に仕事に没頭している時が、一番幸せな時なんだなあと、この頃、つくづく思うんですよ。

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続き
posted by SHINZEN at 11:46 | SHINZEN(しんぜん)-知的障害

SHINZEN(しんぜん)何でも出来る人はいません

SHINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

「何でも出来る人はいません。しかし誰でも何かが出来ます」-c ロジャー・W・クロフォード二世   96年8月

アメリカで人気スピーカーとして活躍し、プロテニス協会承認のプロテニス選手でもある、ロジャー・W・クロフォード2世のスピーチを紹介します。
                    ◇
 皆さん、僕の体が普通ではないことに気付かれたことと思います。僕は先天的に手足が欠けてしまうエレクトロダクトリアという病気を持って生まれてきました。僕の手足は全て何かが欠けています。左手の指は2本、右手の指は1本しかありません。5歳になった時、人生の重大決心をせまられました。左足の下の部分を切断し義足を着けられるように手術するか、そのまま歩行器を使って歩くかです。ちなみに右足の指は3本あります。

 私は、左足の切断で大切なことを学びました。「危険とチャンスは背中合わせだ」ということです。左足を切断しても一生走れなかったかもしれません。しかし、走れるようなチャンスも生まれました。 このこと以来、チャンスがあれば危険があっても挑戦しようと決心しました。人生の敗者は危険を恐れ、自分に限界をつくってしまう人です。手術前は左手が動かせませんでした。

左足を切断した際に足のアキレス腱を左手に移して動かせるようにしてもらいました。 壁や障害が問題ではありません。大切なのはどうやって乗り越えるかです。人間は多かれ少なかれハンディキャップを背負っています。最大の障害は何でしょうか。否定的な考え方です。どんな恵まれた体で生まれてくるよりも、何でもやってやろうというガッツの方が大きな力です。

 僕は僕の肉体を変えることは出来ませんが、考え方を変えることはできます。 両親が前向きな姿勢を教えてくれたことに深く感謝しています。私は、小学校に入るまで自分が身体障害者だとは思わずにいました。小学校に入った最初の日、先生は「悪いけどあなたは身体障害者だから、このクラスには入れない」と言いました。 「僕は障害者ではありません。僕の名前はロジャーです」。泣き出した僕に先生は、「家に帰ってお父さんに聞いてきなさい」と言いました。

 「ねえお父さん、先生は僕を身体障害者だと言うんだよ」。すると父は僕を見つめ、「ロジャー、おまえはいつも前向きな態度でいるかい」。僕が「うん」と答えると、父は「じゃあ、自信を持って言うんだ、障害者じゃないって。自分は障害者だと思う人だけが本当の障害者なんだ」。僕は両親に感謝しています。僕は両親から多くの愛と恵みを受けました。 僕にはブライアンという弟がいます。ある時、母に「また僕みたいな子が生まれたらどうするつもりだったの」と聞くと、「あなたは特別の子だったから、もう1人そういう子が生まれてもいいと思ったの」と言いました。

 「では弟が生まれた時、どう思ったの」。母は、「あなたはたった2000gの小さな赤ちゃんだったわ。でもブライアンは4600gもあって、手と足にそれぞれ5本づつ指がついていたの。あら大変、お祈りがききすぎたんだわと思ったわ」と。母も前向きに考える人です。 母は「親は子供に二つのことを教えなければいけない」と言いました。「一つは歩くことと、親から歩き去ること」、それと「前向きな態度と夢を持って歩いていくことです」。 大人になるにつれ、誰も愛してくれないのではと思うようになりました。しかし2年前、僕の人生を大きく変えてくれる人に出会いました。デートの時、彼女は僕の手を握ってくれました。すると僕は涙が溢れてきました。彼女は「どうしたの」って言うので、「どうして僕の手を握ってくれるの」と聞きました。「だってあなたの手じゃない。指の数なんか問題じゃないわ」。

 何という言葉でしょう。人を愛する時、その人の包み紙は問題ではなくなるのです。 ある風船屋さんに、色々な色の風船がありました。白、黒、黄色、少しカタチが変なものも、でもどの風船も大空へ飛びます。大事なのは風船の中身です。言い替えると、肌の色とか、人の外見ではなく中身が大切だということです。

 皆さん僕は大変恵まれた男です。歩けるようになったばかりでなく、八四年のロス・オリンピックでは聖火ランナーを務めました。何でもできる人はいません。しかし誰でも何かができます。みな素晴らしい才能を与えられています。それを信じて実行することです。夢はかないます。あきらめないで下さい。ありがとう。 

藤波 英子

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posted by SHINZEN at 14:31 | SHINZEN(しんぜん)-身体障害

SHINZEN(しんぜん)誰かの為に生きること

SHINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

誰かの為に生きること、それがボランティア永六輔 講演会より 96年2月

障害者福祉連合会主催の永六輔氏の講演会に参加しました。当日は雪の中を多くの人が集い、永氏の笑いあり風刺ありの当意即妙の話術に魅了されました。その中には、私達ボランティアをする者にとっても少々耳の痛い、しかしなるほどと思う内容がありました。
                    
ボランティアというのは、そもそもラテン語の義勇軍からきたものなんです。「義を見てせざるは勇なきなり」というけれど、では義とは何か。義士とか義民とかあるいは義足、義眼ということから分かるように、補うということ。義士は主君の恨みを補った。堀部安兵衛が高田馬場でした助だち、これもボランティア。足の不自由な人の足を補うのが義足。

つまり義の意味がボランティアなんです。それから考えるとボランティアというのは、皆でするというものではないのね。常に自分の意志でやるもの。手伝いたい人が手伝う。誰かの為に生きていることがボランティアだと思う。それは家族の為でもいいんです。つまり、本来、生まれてから死ぬまで一生がボランティアです。ただ一つ気を付けなければいけないのは、「あなたは、何をして欲しいのですか」と聞いてからするということです。僕の知人のアメリカ人がいるんだけど、彼はもう10何年も日本にいる親日家ですが、ただ一ついやなことがあるという。それはどこの家に行っても、まずお茶が出ることだというんです。

 彼にすると「なぜお茶が出るんだろうか。お茶を欲しいと言ったわけじゃないのに」となるわけです。飲みたくないかもしれないし、他のものがいいかもしれないのに、「まあまあひとつお茶でも」と必ず出てくる。アメリカなら「お茶、コーヒー、ジュースそれともビール?」と聞くというのです。たとえ、水と牛乳しかないとしても今これしかないけれど、どっちにすると聞くのにと。お茶を出すということは、単に形式を守っているだけで、それでもてなしの役割は終わったと自己満足している。

つまりこれは、相手の立場に立っていないということなんです。このことはとても重要なことなんですよ。つまり日本人は相手の立場に立って考える習慣のない民族だということなんです。だから海外ボランティアでもお金を出せばいいんだろうとなっちゃう。何をして欲しいんですかではなく、十把ひとからげにやっちゃう。日本人はボランティアに向いていない思考性をもっているということをよく自覚して下さい。その意味ではこの間、薬害エイズ問題で菅厚生大臣が謝ったのはよかったと思う。なぜなら被害者の願いの中に大臣に謝って欲しいというものがあったからです。

これは案外皆やっていないんですよ。住専の問題、「もんじゅ」の問題でいつ大蔵大臣が、科学技術庁長官が謝りましたか。薬害エイズ問題はひどい。解明していかなければならないことが山ほどあるけど、謝ったということは忘れてはいけないと思う。最後に、これから日本は高齢化社会になります。女性の平均寿命が82才で男性が76才。つまり高齢化社会というのは女性の社会になるということなんです。

これまで、女性の平均寿命がなぜ長いのかということについて、いろいろ論じられてきましたが、ある学者がこんなことを言ったんです。女になれなかったのが男だと。要するに女性の方が完成度が高いから寿命が長いというんです。僕はこれに賛成。だから男がすべきことは女の人がニコニコ暮らせるようにすることだと思う。母、妻を愛し尊敬し大切にする。男のニコニコ、これは時々危ない(笑)。

女のニコニコこれは平和でいい。誰かの為に生きるというボランティア精神も女性の方が上でしょう。だから、おじいちゃんも長生きしたかったら、おばあちゃんのように生きるといい。女性を先頭にたて、女性の生き方を見習っていけばいい社会が築けると思います。

 藤波英子

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SHINZEN(しんぜん)キリスト者としての使命感

SHINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

キリスト者としての使命感に燃えた賀川豊彦の生涯

「世界に平和を来たらせて下さい」賀川豊彦は、ノーベル平和賞の候補にも上がったことのある、国際的に知られたキリスト教伝道者です。そして貧しい人々の友でありました。人を不幸にする社会問題を解決したいという考えから、労働運動、政治運動、協同組合運動など様々な活動をしています。多岐にわたる活動の原動力は、キリスト者として、人々を救いたいという思いからでした。そしてキリストの愛を、一人でも多くの人に知らせたいという使命感でした。ボランティアの先人と一口に言うには、あまりに多面な活動をしてきた人ですが、その生涯をたどってみました。
                    ◇
賀川豊彦は明治21年7月10日、父賀川純一、母かめの次男として神戸市に生まれました。父は徳島県の素封家の三男で、一時は政界で活躍しましたが豊彦が生まれたのは、実業家として成功している頃でした。母かめは元芸者で本妻ではありません。本妻には子がなく、かめとの間に4男1女がいました。豊彦が4才の時、ふとした風邪から父が亡くなり、母かめも、その2ヶ月後に亡くなり、豊彦は徳島の賀川家の本妻に引き取られました。

豊彦は、幼少の頃から成績は抜群でしたが、自身の生まれには悲しみをもっていました。「淫乱の巷から呼び出され、十字架のふもとに立たされた」と、後年、語っています。徳島中学校に入学した豊彦は、16才の時、マヤス博士(アメリカ人宣教師)より洗礼を受けます。その時、彼の耳には、「汝、純潔を求むるか、もし汝が、汚れかかった心を拭い清めて純潔の生涯に入りたいと思うならば、野に咲く百合の花の気持ちになって、天地を見直せ」という、神の声が響いたそうです。

その後、明治学院高等部神学予科から神戸神学校に進みました。生家が破産した豊彦を、物心両面に援助したのはマヤス博士でした。神戸神学校在学中、転機が訪れます。肺を病み、死線をさまよい医師から余命2年と宣告され、どうせ死ぬなら、よいことをして死のうと、神戸新川の貧民窟に身を投じ、伝道活動を始めたのです。豊彦21才の時でした。以後、貧民窟での生活は十数年にわたりました。そこに暮らしている人々は、浮浪者、売春婦、前科者、アル中、日雇い労働者などでした。ケンカ、殺人が絶えることのない地でしたが、中でも心を痛めたのは、貰い子殺しでした。

貧しい生活から子育てができない人々が、他人にお金と生まれたばかりの子供を渡し、栄養失調にして死なせてしまうのです。豊彦はそうした子を引き取り面倒を見たり、日曜学校を開いて教育をしました。狭い家に、浮浪者や病人を泊まらせ、トラホームや疥癬などに悩まされ続けました。

そうした生活の中、豊彦は生涯の協力者であり、良き伴侶のハル夫人と出会ったのです。ハル夫人は豊彦と共に奉仕活動をし、巡回点眼中、トラホームに感染し右眼を失っています。夫人との間には1男2女が恵まれました。27才の時、豊彦は米国留学をし、神学をさらに学びました。アメリカでは、大衆デモを目の当たりにし、貧民を救うには、救貧より防貧であると痛感したのもこの時期です。

帰国した豊彦は、無料診療所の開設。労働者、農民の自由と幸福のための労働、農民運動の指導、あるいは普通選挙運動にのり出したり、協同組合を組織したりと、精力的に活動しました。その全ては貧しい人々を救いたい思いから出たことでした。

しかし、豊彦の活動の中心は、何と言っても伝道活動です。長く労働・農民運動に力を入れていましたが、その人々が共産主義に走ったり、酒に溺れていく姿を見、やはり霊性が大事であると悟り、37才の時、「イエスの友会」を結成しました。その方針は、「イエスにあって敬虔なること、貧しき者の友となりて労働を愛すること。世界平和のため努力すること。純潔なる生活を貴ぶこと。社会奉仕を旨とすること」と、あります。

 彼は、日本人に広く福音を伝えるために、「100万人救霊運動」、「神の国運動」を決意し、閉鎖的であった教会に新風をおこし、教派を超えて、全日本キリスト教会全体で協同伝道する道を開きました。これは日本キリスト教会の歴史の中で、最も成功した伝道活動でした。

 さらに世界各地に講演や伝道にも出かけました。米国、カナダ、ヨーロッパ、南米、中国、インド、イスラエル、オーストラリアと数回にわたり世界各地を回り、世界的名声を得ました。戦争中は、反戦運動により、検挙された豊彦でしたが、戦後は、新生日本のためさらに情熱的に国内、海外に伝道に出かけました。

その日程は、過密で殺人的なほどでした。いつも病気をかかえていた彼の肉体は、キリストの使者としての使命感によって支えられてきましたが、ついに四国伝道の路中に倒れ、昭和35年4月23日、72才にして静かに生涯を閉じました。彼の最後の言葉は、「教会を強くして下さい。日本を救って下さい。世界に平和を来たらせて下さい」というものでした。(参考文献・林啓介「炎は消えず、賀川豊彦・再発見」)

藤波英子

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SHINZEN(しんぜん)青春時代の全てを

国際協力SINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

青春時代の全てをアフリカに捧げて安藤 留美子 NGOボランティア 95年11月

安藤さんは26才の時、青年海外協力隊の隊員として東アフリカのマラウイに助産婦として技術援助のために渡りました。任期の2年を過ぎてもそのままアフリカに残り、サハラ以南の東アフリカ14ヶ国、さらにタイやスリランカなど計16ヶ国で活動を続けて今日に至っています。現在はザイールのご主人さんと共に、サントメで民間のボランティアとして衛生指導などの活動をしています。

                    ◇

私がアフリカに行きたいと思ったのは、小学校5年生の時でした。教科書にのっていたシュバイツァー博士に感動したのです。その後、中学生の時に読んだ博士の本の中に「罪の意識のない良心は悪魔が発明したものである」という一行を読み、衝撃を受けました。高校に入りユニセフに手紙を書いて「アフリカに行くにはどうしたらいいか」と尋ねると青年海外協力隊を教えてくれました。いずれにしろ技術が必要だと思い助産婦になることにしました。ですから私は助産婦になりたくてなったのではなく、アフリカに行くために助産婦になったのです(笑)。しかし初めてのお産はとてもいい出会いをしました。赤ちやんが生まれた後、お母さんが「ありがとうございました」と笑顔で言ってくれたのです。
すばらしい仕事だと実感しました。


 日本での実務3年を終えて26才の時、青年海外協力隊の隊員としてマラウイに渡りました。マラウイはモザンビーク、ダンザニアに隣接する日本の3分の1くらいの小さな国です。元英国領で独立したのは1964年です。私が派遣されたのは、英国国教会が持っている小児科と産婦人科のある100床の病院でした。当時、マラウイには医者は全国で60数人ぐらいしかいませんでした。その病院も医学部は卒業したけれども国家試験は受かっていないというお医者さんが1人。しかもその人も病気で休んだままの状態でした。

朝になりいつまでたっても回診が始まりません。回診とは、お医者さんが患者さんを見回り治療の方針をだすことです。総婦長さんに聞くと「あなたがやるのです」と言われ驚いてしまいました。いきなり何んでもやることになり、熱帯医療の医学書を片手に必死に聴診器を持ちました。

予防注射も行き届かない国では、はしかで2日に1人死んでいくのです。平均寿命は40才ぐらい。間もなく私はマラリアになってしまいましたが、高熱の中でも教科書は手放せませんでした。人間の生死はどうしようもないものもありますが、酸素さえあれば、保育器さえあれば助かったのにという悔しいこともたびたびでした。

ここの病院には英国国教会から送られて14年間もボランティアをしている女性がいました。私達、青年海外協力隊員は当時、200ドルの生活費を国からもらっていましたが、彼女は教会から80ドルの手当でした。ところがその80ドルの中からさらに中高生の奨学金のために寄付をしていました。それこそ全てをアフリカに捧げているのです。

「どうしてそんなにがんばれるのか」と聞くと、「神様、どうぞこの体を通して仕事をして下さい。といつも祈っているのです」との答えでした。私は彼女からボランティアとしての原点を教えられたと思っています。現在、私は主人と共に民間ボランティア団体に所属して活動をしています。政府間で話し合われる公的援助も、実際に現地に行くと、本当に必要なものはもっと別のものではないかと思うことがあります。

例えばスリランカで総工費70億円をかけて未熟児医療の病院を建てましたが、1200gの赤ちやんが2・5sで退院してもその後が育たないのです。それよりも簡単な保育器をたくさん増やしたり、公衆衛生を中心とした教育から始めた方がいいのではと思います。援助とは、その国の文化を壊さないで、その国の人が自分達で生きて行けるよう、つまり自助努力を促すことが大切です。現在は民間ボランティアとして衛生指導などを始めたところで、主人と共に試行錯誤の毎日です。
                    ◇

安藤さんがアフリカに渡ってすでに十数年。青春時代の全てを投じ、アフリカ、アジアを16ヶ国回り、マラリアには、風邪をひくように7回もかかったそうです。「私は肉親がいるので日本に帰ってきますが、どこの国も皆同じです。私は帰巣本能が少し足らないのかもしれません」と、こともなげに笑われました。

藤波英子
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SHINZEN(しんぜん)民間では全国一の規模

SHINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより


民間では全国一の規模の広大な敷地の中で、ゆったりと過ごすお年より

川上康雄 浴風会・特別養護老人ホーム「第二南陽園」園長 98年9月
浴風会は、関東大震災後、自活することができなくなった人々を救護するために、御下賜金と一般義損金をもとに設立されました。

当時の内務省社会局によって、約10万平方メートルの敷地に本館、並びに付属建物合わせて54棟の建物が設置されたのが始まりです。第二次世界大戦中は、しばらく軍の接収を受けましたが、終戦後は、生活保護法による保護施設として再生し、昭和27年4月には社会福祉法人に改組しました。そして昭和38年8月、老人福祉法の施行に伴い福祉法による老人福祉施設として、今日に至っています。

民間では国内最大規模の敷地の中に、養護老人ホーム「浴風園」、特別養護老人ホームとして「南陽園」と「第2南陽園」、軽費老人ホームとして「浴風会松風園」と「浴風会ケアハウス」の五つの老人ホームがあります。現在、総職員数は、550人です。施設は大規模でも、処遇は家庭的というのが私達の願いです。

さて、私共の第二南陽園は、浴風会が南陽園に次いで創立した、特別養護老人ホームです。施設内には、在宅サービスセンターを併設しています。現在の建物は、浴風会創立60周年記念事業として、昭和60年から2ヶ年計画で建てられたもので鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上3階建てになっています。

定員は150人。居室は4人部屋が33室。1人部屋18室、2人部屋3室となっています。150人の入所者全員が杉並区の方々です。杉並区には、現在約3000人の寝たきり老人がいます。そして現在800人の方が入所待機しています。そうした中で、1年間に15〜20人の方が亡くなられ、新たに老人の方が入ってこられます。しかし、入所時には介護度が重度化していることが多くなっています。職員は3人に1人の割合ですが、重度化する分、ケアも大変になってきます。

さて、現在、老人福祉において最大の関心事は公的介護保険制度の施行だと思います。今年は、全国でおよそ2047万人の方が65歳以上の高齢者として「敬老の日」を迎えられました。今後高齢化は、ますます進んでいきます。そうした高齢化社会が進む中、寝たきりや痴呆などの要介護度も増しています。

そのような不安要因を解決するために施行されるのが、この制度ですが、導入を前に現在、この制度の第一線の実施機関となる特別養護老人ホームを対象に、全国的な職員研修がされています。当園からも、多数の職員が参加しています。しかし、なお暗中模索の感があります。

何よりも深刻なのは、超高齢化社会に向かっている一方で、わが国では晩婚、少子化現象が進んでいることです。高齢化社会では、それを支える介護人口が何よりも大切です。ですから私は、これから子供を産む女性には「どうぞ2人は産んで下さい」(笑)と言っているんですよ。いや、本当に笑い話ではない深刻な問題なんです。

当園でも、老人を直接、お世話をしてくれている職員の方々の働きには頭が下がります。毎日、続くおしめ替え、食事の介護、入浴等の労力は、損得を越えた情熱のようなものによって支えられています。そうしたマンパワーの確保は、これからの老人問題の鍵と言っていいでしょう。

それだけに、ボランティアの方々への期待は大きなものがあります。これからの施設は、地域やボランティアの手を借りなければやっていけません。部屋の掃除、おむつたたみ、話し相手など、どんな些細なことでも、私達は大歓迎です。気軽に声をかけて下さい。

藤波英子
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SHINZEN(しんぜん)自己決定の重要さを伝え

SHINZEN(しんぜん)いのちの輝き より

自己決定の重要さを伝え、
その意思を尊重する伴走者となる

c 伊澤雄一   「はらからの家」生活協同ホーム  ホーム長 93年11月

 はらからの家は、精神病院退院後地域に生活の場がない、あるいは家族同居が困難な人達の住居施設です。入居者数は約20人。全室個室です。

 といっても、建物は築30年の老朽化した木造で、12年前に職員住み込みで民間のアパートの一部を借りて始めました。そのうち一般住民は1人去り、2人去って、いつしかアパート全体が施設になりました。

 はらからの家がスタートとした12年前は、現在施行されている「精神保健法」が制定される以前でしたので、行政からの援助は一切ない状態でした。
現在でも、ホームを維持していくのはいつも赤字との戦いですが、大学卒業と同時に経験もない自分が、ホーム設立に着手していったのは、あまりにも住まいを求めている人が多かったからです。

 小平(東京)で相談事業専門のボランティアグループにいたとき、身体障害、精神障害、アルコール依存症などいろいろな障害を抱えている人達の願いは住まいでした。
それなら住まいを提供しようということで出発したのが、このはらからの家でした。

 住まいとは、人が心と体を休め明日への活力を担う重要な役割を持っていますが、精神障害を抱えている人達にとってはもっと大きな意味合いがあるのです。

 僕は植物のオリズル蘭方式と言っているんですが、オリズル蘭の枝がいつの間にか伸びて新しい株をつくっていくように、居所を定めてじわじわと生活場面を拡げていくのです。
そもそも精神障害という言葉ですが、これは錯乱、混乱など病気が急性期にある状態を言うのではなく、精神疾患の後遺症による生活障害を略したものです。

 この生活障害とは、社会適応がしづらい、変化にもろい心理的、肉体的弱点を持っているということです。
そういう弱点を持った人達にとって、安定した住まいというものがいかに重要かお分かりいただけると思います。
しかし、現状は住むというより、周囲におびえひっそり暮らす棲むという表現に近いようです。
現在、全国に約1600ヶ所の精神病院があり34万9000人が入院していますが、そのうちの半数の人が住む場所がないための社会的入院者なのです。

 はらからの家に10年前に来られたAさんの場合もそうでした。
Aさんは有名大学を卒業し教師をしていましたが、生家のお寺を継いだことからストレスがたまり発病。妻子とは入院と同時に協議離婚しました。
病気は数年で安定したものの、病気が一番激しかった頃を思い、親族や檀家が寺に戻ることを反対しました。
そのため、なんと28年間も住む場所がないために入院し続けたというのです。

 当時、私は28歳。私が生まれた頃から入院していたのかと思うと感無量でした。
精神障害者の方で、はらからの家に初めて来られたのが、Aさんでした。それ以後 精神障害の方がどんどん来られ、いつしか専門の生活施設になりました。
それだけ精神障害の人の受け入れ先が少なかったからです。

 1988年に「精神保健法」が制定され、生活関連の施設の「援護寮」「福祉ホーム」が制度化されましたが、5年たって新たに「グループホーム」という小規模居住型施設が盛り込まれました。

 しかしそれでも、精神障害の人達の暮らしの場はあまりに少ないのです。
全国に「援護寮」(20人定員)が49ヶ所、「福祉ホーム」(10人)が68ヶ所、「グループホーム」(5人)が78ヶ所で、これらの生活関連施設にいる人は合わせて2050人しかいないのです。

 家族と同居の困難な人が 退院してすぐに一人でアパート暮らしをするのはとても難しいことです。地域の中にもっと多くの生活関連施設ができることが望まれます。

 最後に、私達スタッフがいつもいましめているのは、自己完結型の抱え込みはしないということです。
はらからの家にいる人が問題に直面したとき、こちらが答えを出すというのではいけないと思います。
私達は自己決定が、いかに重要であるかを伝える作業をしています。地域の中で生活するのにはこの自己決定ができるか、できないかがとても重要です。

 問題解決のための社会施設(相談所など)を紹介したり、解決方法をアドバイスします。私達はその人の決定した意思を尊重する伴走者だと思っています。

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posted by SHINZEN at 11:10 | SHINZEN(しんぜん)-総合失調症

SHINZEN(しんぜん)自宅の離れに


自宅の離れに群馬県初の自立ホームを設立。
自由を手に入れ、はばたいた入居者達 SINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

c 矢島正寿   精神薄弱者自立ホーム・寮長  95年11月

 矢島先生は、妙義もみじ学園創立の昭和55年から、指導員として働いてこられましたが、その中で自立できる人達が、自由な環境の中で暮らし、働ける場所をつくりたいと、自宅の敷地に昭和63年、自立ホームを作りました。現在、人呼んで「矢島ホーム」には3人の学園出身者が暮らしています。

                    ◇

 自立ホームをつくりたいと思ったのは、施設というのは、どうしても管理的になりやすく、潤いに欠け自由が少ないからです。しかし、園生が何を一番欲しているかといえば、自由なのです。
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 それならば、働ける能力のある人は、職場を確保し、住む場所があれば自立できるのだから、自分はその生活の場をつくろうと思ったのです。
自宅の離れに、30坪の家を建て台所、風呂、トイレは共同にして、1人6畳の部屋を使えるようにしました。
当時は、このような自立ホームは、行政でも取り組んでいなかったので、群馬県でも初の試みだったと思います。

 公的な援助も受けていませんし、これは私の仕事というより、ボランティアといった方が、いいかも知れませんね。(笑)

 ホームをつくるにあたって、就労先の確保と地元住民の了解が、必要でした。
私達の村は、わずか200人の人口ですが、当初この200人が、全員反対しました。しかしそれは、知恵遅れの人に対する知識不足からくるもので、一軒一軒を3人と一緒にあいさつをして回ることによって、皆さんの不安は消え、理解を得られました。

 ここで少し、入居者の木村さんのことをお話ししましょう。木村さんは、50代の男性です。もみじ学園には創立時に入り、そして自立ホームに来ました。IQ58で、精神年齢は9歳ぐらいの能力があり、新聞も簡単なものは読めます。

 学園に入る前にも、就労経験がありますが、知恵遅れの他に分裂症の傾向もあり、対人関係がうまくいかず、酒を飲んで放浪ということを繰り返し、職を転々としました。自殺未遂もありました。

 木村さんは、幸いにも理解ある事業主と、巡り会いました。自動車用のアンテナ製造の会社で、木村さんは、アンテナの先に丸いネジを付ける作業をしています。

 社長さんが、木村さんのために、ネジがしっかりついていない時には、知らせてくれるセンサーをつけてくれました。
木村さんでなければ、センサーをつける必要もないし、効率ももっと良いはずですが、それでも使ってくれています。
こうした配慮や協力体制があって、初めて自立の道も開けたのです。

 木村さんは、そこの社長の娘さんが中学時代に使っていた、ピンクのカゴの付いた自転車を、もらいました。
それこそピカピカに磨いて雨の日も風の日もその自転車に乗って、通勤していました。
最近、ギア付きの自転車に買い替えましたが、頂いた自転車は「この自転車は、栄光製作所の社長さんからもらった自転車で、記念品です。誰も持って行かないで下さい」と書いた紙を貼って大切に保管しています。

 木村さんにとって、その自転車は生まれて初めて手に入れた。自由の象徴だったのです。
鳥の翼のように、木村さんはその自転車に乗って、文字通りはばたきました。

 最近は、働いたお金を貯めて、100万円でホームの隣にプレハブを建てました。プレハブといっても玄関もあり表札が付いています。
自分の力で、自分の家を建てたのですから、立派なものです。木村さんは今、まさに木村さんらしく暮らしています。

 自立ホームで実践し、成果のあったものは、少しずつ学園の方でも取り入れてくれています。例えば園生だけで、グループをつくって旅行に行ったり、飲酒も自由になりました。
飲酒を許可したら、無制限に飲むのでは……という心配も杞憂でした。初めのうちこそ失敗する人もいましたが、今は適量が分かっています。
 心配し過ぎて、枠をあまりに多くつくっていたのです。施設は、病院ではありません。管理的なものを少しずつ取り除いて、暮らしやすい環境の中で喜びや生きがいまでも、見つけられるように、手助けしたいと思っています。
                     ◇
 矢島先生のお父さんは、救護施設の施設長でした。その父親の背中を見て育った矢島さんも、いつしか福祉の道に、入っていったそうです。
矢島ホームで、共に暮らしている先生の2人のお子さんも、父の背中から大切なものを、学んでいることでしょう。
日本で欠けているといわれている福祉の心が育つにはそうした、親の姿が何よりも大切なのかも知れません。

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posted by SHINZEN at 10:44 | SHINZEN(しんぜん)-知的障害

(SHINZENしんぜん)愛は、誰の心にもあるもの

愛は、誰の心にもあるもの、使わないと涸れ、
使えば使うほど溢れ多くなるもの (しんぜん いのちの輝き)

c 田中亮治  「東京光の家」理事長 93年6月

 光の家の創立者、秋本梅吉(盲人)は青年時代に内村鑑三に師事しキリスト教の信仰を持つことを通し、それまでの悲嘆にくれた人生観から、心の目が開かれ、生きることの喜びを知りました。
この喜びを少しでも多くの盲人に伝えたいと、大正8年に点字の聖書を作りを始めました。これが光の家の始まりです。

 時代を経て、今では盲人を直接お世話することになり、総合施設として約220人が入所していますが、点字聖書の出版は授産施設の科目の一つとして、今でも受け継がれています。

 私は、この仕事に入る前は教師をしていましたが、全ての職業は必要があって存在するのですから、社会福祉の仕事だから大変だとか尊いと思ったことはありません。
むしろそういう思いは社会福祉に携わる人にとってマイナスになってしまいます。

 ただ、こうした仕事に携わることが許されていることは、幸いなことであり感謝しています。
だからこそ一生懸命やってきました。

 さて、障害を持った人にとって、何より大切なのは、その障害をどうとらえるかということだと思います。

 新約聖書のヨハネによる福音書第九章の中で、弟子達が盲人を見てイエス様に「このひとが盲人であるのは誰の罪の為ですか」と訊ねると、「本人の罪でも、両親の罪でもなく、ただ神のみ業が彼の上に現れる為である」というくだりがあります。
この聖句は実に意味深いものです。

 私も盲人の方に、その聖句を用いながら「聖書ではこう言っています。私には分かりませんが、皆さんはどう思いますか」と問いかけることがあります。

 なぜなら盲人の方が、その障害を「自分は運が悪かった」という観点だけでとらえて欲しくないからです。

もし、「これは自分や先祖の罪のためではなく、神の栄光が現れる為である」という見方が出来るようになれば、その人の人生はまったく違うものになります。

 それまで、親を恨んだり、ひねくれたりしていた人が、「神のみ栄えの為であった」と知り、がらりと人生が変わって、見える人以上の働きをしてきた人を何人も見てきました。

 私共の光の家の創立者もそうですし、大阪の「日本ライトハウス」の創立者、岩橋氏もそうでした。長い苦しみを経て、やがて障害を受容し、前向きに生きていく姿こそ、神の栄光です。

 次に光の家とボランティアの関わりをお話しします。私共ではまず、ボランティア希望の人と面接をし、何をしたいのかよく聞き、その人に合わせて仕事を用意しています。
また、無理のない範囲できてもらっています。始めは張り切っていますから、毎日でもという人もいますが、長く続けていただくために週に1回、2〜3時間ぐらいでお願いしています。

 一方、ボランティアの人に心がけて欲しいのは、来られない時や遅れる時はきちんと連絡して欲しいということです。
外出の同伴をしてくれるというので、おめかしをして待っていても、何の連絡もなしに来られないと、とてもがっかりします。
もう一つ重要なことは立場を越えないということです。
長く来ているうちに職員のあらが見えてきて、不満がでることもありますが、やはり立場を越えると職員としても困るんですね。

 ボランティアというのは、その人のやさしさの現れだと思います。愛は、誰の心にもあるものですが使われないと涸れ、使えば使うほど溢れ、多くなります。
ボランティアとは、まさに愛の力を蓄える行為といえます。皆様も、どうぞ末長くボランティアを続けて大きな蓄えを作って下さい。

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posted by SHINZEN at 16:21 | SHINZEN(しんぜん)-身体障害

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