SHINZEN(しんぜん)の「共にのつどい」の名前には「共に生き、共に考えよう」という意味がこめられています。 SHINZEN(しんぜん)では毎月、施設の先生、あるいは障害者ご本人や、お母さん、他のボランティア・グループの方々をお呼びしてお話を伺っており、その内容は、どれも感銘深いものばかりでした。 講師の方は、淡々と語りながらも、一つ一つの言葉の中には、ほとばしるような思いがあり、私たちSHINZEN(しんぜん)スタッフにも熱い情熱が伝わってくるのです。 時には、胸を切り裂かれるような悲しみ、苦しみの淵に立ちながらも、それを超えてきた道のりは聞く者の心をゆさぶりました。 どうやってその壁を越えたのだろうか。どうしたら、そんなにも変わらない心で尽くせるのだろうか... そこには、生きていく上で大切なものが珠玉のようにきらめいていました。 SHINZEN(しんぜん)ではこれから、ブログを通して「共にの集い」の内容を紹介していきます。

SHINZEN(しんぜん)何でも出来る人はいません

SHINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

「何でも出来る人はいません。しかし誰でも何かが出来ます」-c ロジャー・W・クロフォード二世   96年8月

アメリカで人気スピーカーとして活躍し、プロテニス協会承認のプロテニス選手でもある、ロジャー・W・クロフォード2世のスピーチを紹介します。
                    ◇
 皆さん、僕の体が普通ではないことに気付かれたことと思います。僕は先天的に手足が欠けてしまうエレクトロダクトリアという病気を持って生まれてきました。僕の手足は全て何かが欠けています。左手の指は2本、右手の指は1本しかありません。5歳になった時、人生の重大決心をせまられました。左足の下の部分を切断し義足を着けられるように手術するか、そのまま歩行器を使って歩くかです。ちなみに右足の指は3本あります。

 私は、左足の切断で大切なことを学びました。「危険とチャンスは背中合わせだ」ということです。左足を切断しても一生走れなかったかもしれません。しかし、走れるようなチャンスも生まれました。 このこと以来、チャンスがあれば危険があっても挑戦しようと決心しました。人生の敗者は危険を恐れ、自分に限界をつくってしまう人です。手術前は左手が動かせませんでした。

左足を切断した際に足のアキレス腱を左手に移して動かせるようにしてもらいました。 壁や障害が問題ではありません。大切なのはどうやって乗り越えるかです。人間は多かれ少なかれハンディキャップを背負っています。最大の障害は何でしょうか。否定的な考え方です。どんな恵まれた体で生まれてくるよりも、何でもやってやろうというガッツの方が大きな力です。

 僕は僕の肉体を変えることは出来ませんが、考え方を変えることはできます。 両親が前向きな姿勢を教えてくれたことに深く感謝しています。私は、小学校に入るまで自分が身体障害者だとは思わずにいました。小学校に入った最初の日、先生は「悪いけどあなたは身体障害者だから、このクラスには入れない」と言いました。 「僕は障害者ではありません。僕の名前はロジャーです」。泣き出した僕に先生は、「家に帰ってお父さんに聞いてきなさい」と言いました。

 「ねえお父さん、先生は僕を身体障害者だと言うんだよ」。すると父は僕を見つめ、「ロジャー、おまえはいつも前向きな態度でいるかい」。僕が「うん」と答えると、父は「じゃあ、自信を持って言うんだ、障害者じゃないって。自分は障害者だと思う人だけが本当の障害者なんだ」。僕は両親に感謝しています。僕は両親から多くの愛と恵みを受けました。 僕にはブライアンという弟がいます。ある時、母に「また僕みたいな子が生まれたらどうするつもりだったの」と聞くと、「あなたは特別の子だったから、もう1人そういう子が生まれてもいいと思ったの」と言いました。

 「では弟が生まれた時、どう思ったの」。母は、「あなたはたった2000gの小さな赤ちゃんだったわ。でもブライアンは4600gもあって、手と足にそれぞれ5本づつ指がついていたの。あら大変、お祈りがききすぎたんだわと思ったわ」と。母も前向きに考える人です。 母は「親は子供に二つのことを教えなければいけない」と言いました。「一つは歩くことと、親から歩き去ること」、それと「前向きな態度と夢を持って歩いていくことです」。 大人になるにつれ、誰も愛してくれないのではと思うようになりました。しかし2年前、僕の人生を大きく変えてくれる人に出会いました。デートの時、彼女は僕の手を握ってくれました。すると僕は涙が溢れてきました。彼女は「どうしたの」って言うので、「どうして僕の手を握ってくれるの」と聞きました。「だってあなたの手じゃない。指の数なんか問題じゃないわ」。

 何という言葉でしょう。人を愛する時、その人の包み紙は問題ではなくなるのです。 ある風船屋さんに、色々な色の風船がありました。白、黒、黄色、少しカタチが変なものも、でもどの風船も大空へ飛びます。大事なのは風船の中身です。言い替えると、肌の色とか、人の外見ではなく中身が大切だということです。

 皆さん僕は大変恵まれた男です。歩けるようになったばかりでなく、八四年のロス・オリンピックでは聖火ランナーを務めました。何でもできる人はいません。しかし誰でも何かができます。みな素晴らしい才能を与えられています。それを信じて実行することです。夢はかないます。あきらめないで下さい。ありがとう。 

藤波 英子

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posted by SHINZEN at 14:31 | SHINZEN(しんぜん)-身体障害

SHINZEN(しんぜん)誰かの為に生きること

SHINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

誰かの為に生きること、それがボランティア永六輔 講演会より 96年2月

障害者福祉連合会主催の永六輔氏の講演会に参加しました。当日は雪の中を多くの人が集い、永氏の笑いあり風刺ありの当意即妙の話術に魅了されました。その中には、私達ボランティアをする者にとっても少々耳の痛い、しかしなるほどと思う内容がありました。
                    
ボランティアというのは、そもそもラテン語の義勇軍からきたものなんです。「義を見てせざるは勇なきなり」というけれど、では義とは何か。義士とか義民とかあるいは義足、義眼ということから分かるように、補うということ。義士は主君の恨みを補った。堀部安兵衛が高田馬場でした助だち、これもボランティア。足の不自由な人の足を補うのが義足。

つまり義の意味がボランティアなんです。それから考えるとボランティアというのは、皆でするというものではないのね。常に自分の意志でやるもの。手伝いたい人が手伝う。誰かの為に生きていることがボランティアだと思う。それは家族の為でもいいんです。つまり、本来、生まれてから死ぬまで一生がボランティアです。ただ一つ気を付けなければいけないのは、「あなたは、何をして欲しいのですか」と聞いてからするということです。僕の知人のアメリカ人がいるんだけど、彼はもう10何年も日本にいる親日家ですが、ただ一ついやなことがあるという。それはどこの家に行っても、まずお茶が出ることだというんです。

 彼にすると「なぜお茶が出るんだろうか。お茶を欲しいと言ったわけじゃないのに」となるわけです。飲みたくないかもしれないし、他のものがいいかもしれないのに、「まあまあひとつお茶でも」と必ず出てくる。アメリカなら「お茶、コーヒー、ジュースそれともビール?」と聞くというのです。たとえ、水と牛乳しかないとしても今これしかないけれど、どっちにすると聞くのにと。お茶を出すということは、単に形式を守っているだけで、それでもてなしの役割は終わったと自己満足している。

つまりこれは、相手の立場に立っていないということなんです。このことはとても重要なことなんですよ。つまり日本人は相手の立場に立って考える習慣のない民族だということなんです。だから海外ボランティアでもお金を出せばいいんだろうとなっちゃう。何をして欲しいんですかではなく、十把ひとからげにやっちゃう。日本人はボランティアに向いていない思考性をもっているということをよく自覚して下さい。その意味ではこの間、薬害エイズ問題で菅厚生大臣が謝ったのはよかったと思う。なぜなら被害者の願いの中に大臣に謝って欲しいというものがあったからです。

これは案外皆やっていないんですよ。住専の問題、「もんじゅ」の問題でいつ大蔵大臣が、科学技術庁長官が謝りましたか。薬害エイズ問題はひどい。解明していかなければならないことが山ほどあるけど、謝ったということは忘れてはいけないと思う。最後に、これから日本は高齢化社会になります。女性の平均寿命が82才で男性が76才。つまり高齢化社会というのは女性の社会になるということなんです。

これまで、女性の平均寿命がなぜ長いのかということについて、いろいろ論じられてきましたが、ある学者がこんなことを言ったんです。女になれなかったのが男だと。要するに女性の方が完成度が高いから寿命が長いというんです。僕はこれに賛成。だから男がすべきことは女の人がニコニコ暮らせるようにすることだと思う。母、妻を愛し尊敬し大切にする。男のニコニコ、これは時々危ない(笑)。

女のニコニコこれは平和でいい。誰かの為に生きるというボランティア精神も女性の方が上でしょう。だから、おじいちゃんも長生きしたかったら、おばあちゃんのように生きるといい。女性を先頭にたて、女性の生き方を見習っていけばいい社会が築けると思います。

 藤波英子

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SHINZEN(しんぜん)キリスト者としての使命感

SHINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

キリスト者としての使命感に燃えた賀川豊彦の生涯

「世界に平和を来たらせて下さい」賀川豊彦は、ノーベル平和賞の候補にも上がったことのある、国際的に知られたキリスト教伝道者です。そして貧しい人々の友でありました。人を不幸にする社会問題を解決したいという考えから、労働運動、政治運動、協同組合運動など様々な活動をしています。多岐にわたる活動の原動力は、キリスト者として、人々を救いたいという思いからでした。そしてキリストの愛を、一人でも多くの人に知らせたいという使命感でした。ボランティアの先人と一口に言うには、あまりに多面な活動をしてきた人ですが、その生涯をたどってみました。
                    ◇
賀川豊彦は明治21年7月10日、父賀川純一、母かめの次男として神戸市に生まれました。父は徳島県の素封家の三男で、一時は政界で活躍しましたが豊彦が生まれたのは、実業家として成功している頃でした。母かめは元芸者で本妻ではありません。本妻には子がなく、かめとの間に4男1女がいました。豊彦が4才の時、ふとした風邪から父が亡くなり、母かめも、その2ヶ月後に亡くなり、豊彦は徳島の賀川家の本妻に引き取られました。

豊彦は、幼少の頃から成績は抜群でしたが、自身の生まれには悲しみをもっていました。「淫乱の巷から呼び出され、十字架のふもとに立たされた」と、後年、語っています。徳島中学校に入学した豊彦は、16才の時、マヤス博士(アメリカ人宣教師)より洗礼を受けます。その時、彼の耳には、「汝、純潔を求むるか、もし汝が、汚れかかった心を拭い清めて純潔の生涯に入りたいと思うならば、野に咲く百合の花の気持ちになって、天地を見直せ」という、神の声が響いたそうです。

その後、明治学院高等部神学予科から神戸神学校に進みました。生家が破産した豊彦を、物心両面に援助したのはマヤス博士でした。神戸神学校在学中、転機が訪れます。肺を病み、死線をさまよい医師から余命2年と宣告され、どうせ死ぬなら、よいことをして死のうと、神戸新川の貧民窟に身を投じ、伝道活動を始めたのです。豊彦21才の時でした。以後、貧民窟での生活は十数年にわたりました。そこに暮らしている人々は、浮浪者、売春婦、前科者、アル中、日雇い労働者などでした。ケンカ、殺人が絶えることのない地でしたが、中でも心を痛めたのは、貰い子殺しでした。

貧しい生活から子育てができない人々が、他人にお金と生まれたばかりの子供を渡し、栄養失調にして死なせてしまうのです。豊彦はそうした子を引き取り面倒を見たり、日曜学校を開いて教育をしました。狭い家に、浮浪者や病人を泊まらせ、トラホームや疥癬などに悩まされ続けました。

そうした生活の中、豊彦は生涯の協力者であり、良き伴侶のハル夫人と出会ったのです。ハル夫人は豊彦と共に奉仕活動をし、巡回点眼中、トラホームに感染し右眼を失っています。夫人との間には1男2女が恵まれました。27才の時、豊彦は米国留学をし、神学をさらに学びました。アメリカでは、大衆デモを目の当たりにし、貧民を救うには、救貧より防貧であると痛感したのもこの時期です。

帰国した豊彦は、無料診療所の開設。労働者、農民の自由と幸福のための労働、農民運動の指導、あるいは普通選挙運動にのり出したり、協同組合を組織したりと、精力的に活動しました。その全ては貧しい人々を救いたい思いから出たことでした。

しかし、豊彦の活動の中心は、何と言っても伝道活動です。長く労働・農民運動に力を入れていましたが、その人々が共産主義に走ったり、酒に溺れていく姿を見、やはり霊性が大事であると悟り、37才の時、「イエスの友会」を結成しました。その方針は、「イエスにあって敬虔なること、貧しき者の友となりて労働を愛すること。世界平和のため努力すること。純潔なる生活を貴ぶこと。社会奉仕を旨とすること」と、あります。

 彼は、日本人に広く福音を伝えるために、「100万人救霊運動」、「神の国運動」を決意し、閉鎖的であった教会に新風をおこし、教派を超えて、全日本キリスト教会全体で協同伝道する道を開きました。これは日本キリスト教会の歴史の中で、最も成功した伝道活動でした。

 さらに世界各地に講演や伝道にも出かけました。米国、カナダ、ヨーロッパ、南米、中国、インド、イスラエル、オーストラリアと数回にわたり世界各地を回り、世界的名声を得ました。戦争中は、反戦運動により、検挙された豊彦でしたが、戦後は、新生日本のためさらに情熱的に国内、海外に伝道に出かけました。

その日程は、過密で殺人的なほどでした。いつも病気をかかえていた彼の肉体は、キリストの使者としての使命感によって支えられてきましたが、ついに四国伝道の路中に倒れ、昭和35年4月23日、72才にして静かに生涯を閉じました。彼の最後の言葉は、「教会を強くして下さい。日本を救って下さい。世界に平和を来たらせて下さい」というものでした。(参考文献・林啓介「炎は消えず、賀川豊彦・再発見」)

藤波英子

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