SHINZEN(しんぜん)の「共にのつどい」の名前には「共に生き、共に考えよう」という意味がこめられています。 SHINZEN(しんぜん)では毎月、施設の先生、あるいは障害者ご本人や、お母さん、他のボランティア・グループの方々をお呼びしてお話を伺っており、その内容は、どれも感銘深いものばかりでした。 講師の方は、淡々と語りながらも、一つ一つの言葉の中には、ほとばしるような思いがあり、私たちSHINZEN(しんぜん)スタッフにも熱い情熱が伝わってくるのです。 時には、胸を切り裂かれるような悲しみ、苦しみの淵に立ちながらも、それを超えてきた道のりは聞く者の心をゆさぶりました。 どうやってその壁を越えたのだろうか。どうしたら、そんなにも変わらない心で尽くせるのだろうか... そこには、生きていく上で大切なものが珠玉のようにきらめいていました。 SHINZEN(しんぜん)ではこれから、ブログを通して「共にの集い」の内容を紹介していきます。

SHINZEN(しんぜん)望んだ訳でもなく、そのように生まれ

SHINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

望んだ訳でもなく、そのように生まれ、
素直に懸命に生きる姿に心打たれます

c 中村 直子  ほんまち作業所 主任指導員 98年4月

 ほんまち作業所は、昭和63年4月に知的障害者のための通所作業所として開設しました。
現在は12人の人が通っています。
 しんぜん会さんには、開所当初からボランティアに来ていただいて、大変に感謝しています。
初めは作業の手伝いをしていただきましたが、現在は、月1度、給食サービスをして下さっています。
まず、しんぜん会の福島さんから取りたての野菜が送られてきます。
この野菜が無農薬の本当においしいものなんです。
そして、その野菜に合わせて季節季節のおいしい料理をしんぜん会の方が、作業所で作って下さるのです。

 作業生は一人暮らしをしている人が多いので、皆とても楽しみにしているんですよ。
障害の重い人ほど食べる力も衰えるのですが、あっという間に皆と同じに食べるのを見ると、言葉は無くても本当においしいんだなあと感心しています。

 先ほど、重度の障害と言いましたが、知的障害は3段階に分けられています。
重度は1〜2度の人で精神年齢3〜4歳、中度は3度で精神年齢6〜7歳、軽度は4度で12〜13歳の精神年齢といわれています。

 重度であるほど、周りは大変だと一概には言えません。軽度の人は、社会に出る機会が多いだけに、好奇心も旺盛で、タバコを吸ってみたり、盛り場に行くこともあります。
しかし、いざとなるとやはり弱い所があり、むしろ軽度の人がトラブルに巻き込まれることが多いようです。

 最近、作業所でとても考えさせられることがありました。
50代の男性Tさんは、以前ペンキ職人をしていた人でしたが、半年ぐらい作業所に通っていました。
職人さんをしていたということで、言葉なども荒い人でしたが、作業所に来られるようになって、顔もとても穏やかになってきたんです。
そのTさんが、作業所を数日休んだので、区の保護課の人に様子を見に行ってもらったところ、吐血で亡くなっていたのです。

 身元引受人もおらず共同墓地に入りました。
Tさんは、通帳を持っていなかったので、お金の出入りもはっきりしていませんでした。
普通の人でも生きにくい世の中ですけど、障害を持って一人暮らしをしていると、いろいろな人が寄って来ることもあります。
しかし、作業所では個人の生活の場までは入っていけないのです。
つくづく支える人の必要性を感じました。

 そうした中、現在、禁治産後見、準禁治産補佐という制度の改正作業がすすめられていますが、新たに生まれようとしている「成年後見」制度に期待したいですね。

 未成年者に対する後見は、通常、その財産を管理したり、教育や住む場所を決めているのは親です。
これに対して成年後見というのは、20歳を過ぎて成人した人を対象にした制度です。
例えば、知的発達障害や、精神障害を持った人、痴呆性高齢者の人を対象にしています。

 すてっぷ法律相談員の弁護士、高村先生は、後見の本質は、代行決定ではないかといわれています。
物事を自分で決定するためには、判断能力を必要としますが、この判断能力が不十分な場合には、他人が代わりに物事を決定することを認めることです。
 後見人制度も、まだまだ検討事項が多くありますが、親亡き後の財産管理等、法人後見に任せる道には期待しています。

 最後に一つお話ししたいのは、知的障害で精神年齢が4歳ぐらいといわれても、年齢相応の部分はあるということです。
言葉や字を書く能力は、劣っていたとしても、「自分を受け入れているのか、いないのか」というような感受性の細やかさは驚くほどです。
 本物か偽物かを見極めるアンテナも、するどいのです。
それだけにごまかしがききません。

 望んだ訳でもなく、そのように生まれ、素直に懸命に生きている姿を見るたびに、いじらしく、けなげに思います。
私にとって、通所生と共に仕事に没頭している時が、一番幸せな時なんだなあと、この頃、つくづく思うんですよ。

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続き
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SHINZEN(しんぜん)自宅の離れに


自宅の離れに群馬県初の自立ホームを設立。
自由を手に入れ、はばたいた入居者達 SINZEN(しんぜん)いのちの輝きより

c 矢島正寿   精神薄弱者自立ホーム・寮長  95年11月

 矢島先生は、妙義もみじ学園創立の昭和55年から、指導員として働いてこられましたが、その中で自立できる人達が、自由な環境の中で暮らし、働ける場所をつくりたいと、自宅の敷地に昭和63年、自立ホームを作りました。現在、人呼んで「矢島ホーム」には3人の学園出身者が暮らしています。

                    ◇

 自立ホームをつくりたいと思ったのは、施設というのは、どうしても管理的になりやすく、潤いに欠け自由が少ないからです。しかし、園生が何を一番欲しているかといえば、自由なのです。
国際協力SHINZEN(しんぜん)公式ホームペー
 それならば、働ける能力のある人は、職場を確保し、住む場所があれば自立できるのだから、自分はその生活の場をつくろうと思ったのです。
自宅の離れに、30坪の家を建て台所、風呂、トイレは共同にして、1人6畳の部屋を使えるようにしました。
当時は、このような自立ホームは、行政でも取り組んでいなかったので、群馬県でも初の試みだったと思います。

 公的な援助も受けていませんし、これは私の仕事というより、ボランティアといった方が、いいかも知れませんね。(笑)

 ホームをつくるにあたって、就労先の確保と地元住民の了解が、必要でした。
私達の村は、わずか200人の人口ですが、当初この200人が、全員反対しました。しかしそれは、知恵遅れの人に対する知識不足からくるもので、一軒一軒を3人と一緒にあいさつをして回ることによって、皆さんの不安は消え、理解を得られました。

 ここで少し、入居者の木村さんのことをお話ししましょう。木村さんは、50代の男性です。もみじ学園には創立時に入り、そして自立ホームに来ました。IQ58で、精神年齢は9歳ぐらいの能力があり、新聞も簡単なものは読めます。

 学園に入る前にも、就労経験がありますが、知恵遅れの他に分裂症の傾向もあり、対人関係がうまくいかず、酒を飲んで放浪ということを繰り返し、職を転々としました。自殺未遂もありました。

 木村さんは、幸いにも理解ある事業主と、巡り会いました。自動車用のアンテナ製造の会社で、木村さんは、アンテナの先に丸いネジを付ける作業をしています。

 社長さんが、木村さんのために、ネジがしっかりついていない時には、知らせてくれるセンサーをつけてくれました。
木村さんでなければ、センサーをつける必要もないし、効率ももっと良いはずですが、それでも使ってくれています。
こうした配慮や協力体制があって、初めて自立の道も開けたのです。

 木村さんは、そこの社長の娘さんが中学時代に使っていた、ピンクのカゴの付いた自転車を、もらいました。
それこそピカピカに磨いて雨の日も風の日もその自転車に乗って、通勤していました。
最近、ギア付きの自転車に買い替えましたが、頂いた自転車は「この自転車は、栄光製作所の社長さんからもらった自転車で、記念品です。誰も持って行かないで下さい」と書いた紙を貼って大切に保管しています。

 木村さんにとって、その自転車は生まれて初めて手に入れた。自由の象徴だったのです。
鳥の翼のように、木村さんはその自転車に乗って、文字通りはばたきました。

 最近は、働いたお金を貯めて、100万円でホームの隣にプレハブを建てました。プレハブといっても玄関もあり表札が付いています。
自分の力で、自分の家を建てたのですから、立派なものです。木村さんは今、まさに木村さんらしく暮らしています。

 自立ホームで実践し、成果のあったものは、少しずつ学園の方でも取り入れてくれています。例えば園生だけで、グループをつくって旅行に行ったり、飲酒も自由になりました。
飲酒を許可したら、無制限に飲むのでは……という心配も杞憂でした。初めのうちこそ失敗する人もいましたが、今は適量が分かっています。
 心配し過ぎて、枠をあまりに多くつくっていたのです。施設は、病院ではありません。管理的なものを少しずつ取り除いて、暮らしやすい環境の中で喜びや生きがいまでも、見つけられるように、手助けしたいと思っています。
                     ◇
 矢島先生のお父さんは、救護施設の施設長でした。その父親の背中を見て育った矢島さんも、いつしか福祉の道に、入っていったそうです。
矢島ホームで、共に暮らしている先生の2人のお子さんも、父の背中から大切なものを、学んでいることでしょう。
日本で欠けているといわれている福祉の心が育つにはそうした、親の姿が何よりも大切なのかも知れません。

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(SHINZENしんぜん)障害者も健常者も、対等な立場でつきあわなければ、真の人間関係はうまれない

障害者も健常者も、対等な立場でつきあわなければ、真の人間関係はうまれない(SHINZENしんぜん いのちの輝き)

谷口奈保子  「ぱれっとを支える会」代表 94年5月

 私は、渋谷に住み始めて27年になります。1男2女に恵まれ、幸せに暮らしていました。ところが20年前、長女が3才の時に、突然小児癌と診断されました。分かった時には手術でも取りきれなく、余命1年と宣告され、そして11カ月の闘病生活の末に娘は亡くなりました。

 さらに年子の長男が難病に侵され再び入院生活が始まり、2才の末っ子を抱えての過酷な日々を経験しました。幸いにも長男は快方に向かいました。

 この経験、特に娘の死は、今まで見えなかったことを私に教えてくれました。病気で苦しんでいる子が何と多いことか、こんな形で死ぬ子供がいるという現実は、30才そこそこの私にはショックでした。

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 娘の死後、病院ボランティアを始めたのも、今苦しんでいる子供達に何かせずにはいられなかったからです。また、悩み苦しんでいるお母さんのはけ口にもなりたいと思いました。死と背中合わせの子供との関係はつらいものでした。9年間のボランティアの中で、300人の子供と出会い、100人との別離がありました。

 私はその中で、彼らが病院という、社会から隔絶された生活環境を余儀なくされていることに、疑問を持ち福祉全体についてを学ぶため、大学に入り直しました。大学の教育実習で養護学校へ行き、知的障害者と出会ったのです。その出会いは衝撃的でした。どんな重い障害を持っていても、学校に来て友人や先生と触れ合って生きている。その姿はまぶしくさえありました。

 彼らから「生きる」ことの素晴らしさを教えられ、私は地域の中で、知的障害者と共に生きようと決意しました。 まず障害者が色々な人達と出会える場を皆と作ろうと考え、若いボランティアに支えられて「たまり場ぱれっと」を、83年にオープンしました。「ぱれっと」という名前は、様々な色を混ぜて新しい色を作り出すように、障害者と健常者が出会い、新しい関係を生み出したいという願いが込められています。

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 「たまり場ぱれっと」を設立した2年後の85年4月に、渋谷区の助成金を基に、障害者の働く場としてクッキーを製造し、販売する福祉作業所、「おかし屋ぱれっと」を作りました。現在、10人が毎日30キロのクッキーを焼いていますが、これは並大抵の事ではありません。障害者が作ったクッキーだからという甘えはなくし、美味しいクッキーを目指してきました。味に対しては皆、プライドを持っています。

 今では年間2400万円の売上があります。給与もボーナス月には10万円を超すようになりました。(ちなみに全国の福祉作業所の障害者への給料は1万円にも満たないところが多く、ぱれっとの給料は全国でもトップクラスでしょう。)

 さらに「おかし屋ぱれっと」の設立後、もっと障害者が地域の中で融合していける場を作りたいと、91年1月に「スリランカレストランぱれっと」をオープンしました。障害者と健常者が共に働く場として、国を超え、人種を超え、外国人も参加してもらいました。このレストランでは、知的障害者が接客しながら、一般の人達と触れ合っています。

 ごく普通のレストランとして開いていますので、それだけに障害者という甘えは許されません。ぎこちなさや不明瞭さはあるかも知れませんが、彼らの誠意ある態度と私共の手助けでカバーします。少なくとも、障害者だから客の対応は無理だと決めつけた考えは避けたいのです。
公的援助は一切受けずにスタートし、経営はかなり苦しい状態ですが、色々なことに、チャレンジしていく中で開かれていく世界があると思います。 そして昨年8月に障害者が地域で暮らせる家として、「恵比寿ぱれっとホーム」を区の助成を得てオープンさせました。

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 この10年間に触れ合いの場、働く場、暮らしの場として4つの拠点を作ってきましたが、改めてこの10年間を振り返ると、かなりの反省があります。 彼らの為という考えをしながらも、まず拠点を作り、あてがってきたのではないかと。無我夢中でやってきましたが、障害者がどれだけ自己選択し、自己決定してきたのだろうかと反省させられます。

 障害者といえども、自分の働きたい場で働き、住みたい場に住む自己選択、決定が尊重されなければ、人権の尊重になりません。それがなければ、いつまでたっても、する側、される側の力関係になってしまいます。 人間は、互いに出来ないことを援助するのは当たり前です。人間としては対等な立場で付き合わなければ、真の人間関係は生まれません。「障害者が真に地域に生きる」社会を作る為にどういう活動をしていくか、今後の10年間を見据えて模索中です。

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SHINZEN(しんぜん)医学的には3歳の可能性といわれても意欲が芽生えて、無限の可能性を開花

SHINZEN(しんぜん)講話集2
私は、25歳の時、「生きがい」を求めて教会で洗礼を受け、教会のボランティアとして初めて目黒恵風寮に行くようになりました。

その翌年、会社を辞め、職員になってもう20年以上になります。社会福祉の勉強は、職員をしながら夜間大学に通って学びました。3年前に副寮長になる前までは、機織り作業の指導をずっとしてきました。

 20数年間で、施設も大きく様変わりしてきましたが、やはり大切なのは、寮生との心のふれ合いです。 その中でも、忘れられない思い出は、佐野さんとの出会いでした。

小柄でやさしそうな佐野さんですが、昔はたいへんな問題児?でした。ひとたびカンシャクをおこすと、二階からテレビを投げてしまったり、テーブルをひっくり返したり、駅のホームで大の字になったり、武勇伝は数知れず……。

 そんな佐野さんでしたが根気のよいところがあり、機織り作業班の中で、10年間毎日、コツコツと毛糸卷きだけを続けてきました。そうして10年間かかって彼女の中から私も機織りをやりたいという気持ちが出てきたんですね。

 作品を創り始めると、佐野さんのてんかん気質が幸いしました。てんかん気質の人は一つの事にこだわり集中するところがあるのです。縦糸、横糸も自分で好きな毛糸を選び、実にみごとな作品を創りあげ、皆を驚かせたものです。

それが佐野さんに自信をつけさせ、さらには意欲につながったんです。今では、寮の担当医も「野獣が神様になったね」と笑うんですよ。

 彼女から、本当に多くのことを学びました。作業はその人の持っている可能性を引き出すことが目的ですが、医学的には、3歳の可能性しかないといわれても、実際にはその可能性は無限にあるんですね。

それが、心が通じた時にみごとに開かれたのです。

菅野俊美氏 精神薄弱者更正施設(目黒恵風寮)副寮長 91年9月

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