SHINZEN(しんぜん)の「共にのつどい」の名前には「共に生き、共に考えよう」という意味がこめられています。 SHINZEN(しんぜん)では毎月、施設の先生、あるいは障害者ご本人や、お母さん、他のボランティア・グループの方々をお呼びしてお話を伺っており、その内容は、どれも感銘深いものばかりでした。 講師の方は、淡々と語りながらも、一つ一つの言葉の中には、ほとばしるような思いがあり、私たちSHINZEN(しんぜん)スタッフにも熱い情熱が伝わってくるのです。 時には、胸を切り裂かれるような悲しみ、苦しみの淵に立ちながらも、それを超えてきた道のりは聞く者の心をゆさぶりました。 どうやってその壁を越えたのだろうか。どうしたら、そんなにも変わらない心で尽くせるのだろうか... そこには、生きていく上で大切なものが珠玉のようにきらめいていました。 SHINZEN(しんぜん)ではこれから、ブログを通して「共にの集い」の内容を紹介していきます。

SHINZEN(しんぜん)青春時代の全てを

国際協力SINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

青春時代の全てをアフリカに捧げて安藤 留美子 NGOボランティア 95年11月

安藤さんは26才の時、青年海外協力隊の隊員として東アフリカのマラウイに助産婦として技術援助のために渡りました。任期の2年を過ぎてもそのままアフリカに残り、サハラ以南の東アフリカ14ヶ国、さらにタイやスリランカなど計16ヶ国で活動を続けて今日に至っています。現在はザイールのご主人さんと共に、サントメで民間のボランティアとして衛生指導などの活動をしています。

                    ◇

私がアフリカに行きたいと思ったのは、小学校5年生の時でした。教科書にのっていたシュバイツァー博士に感動したのです。その後、中学生の時に読んだ博士の本の中に「罪の意識のない良心は悪魔が発明したものである」という一行を読み、衝撃を受けました。高校に入りユニセフに手紙を書いて「アフリカに行くにはどうしたらいいか」と尋ねると青年海外協力隊を教えてくれました。いずれにしろ技術が必要だと思い助産婦になることにしました。ですから私は助産婦になりたくてなったのではなく、アフリカに行くために助産婦になったのです(笑)。しかし初めてのお産はとてもいい出会いをしました。赤ちやんが生まれた後、お母さんが「ありがとうございました」と笑顔で言ってくれたのです。
すばらしい仕事だと実感しました。


 日本での実務3年を終えて26才の時、青年海外協力隊の隊員としてマラウイに渡りました。マラウイはモザンビーク、ダンザニアに隣接する日本の3分の1くらいの小さな国です。元英国領で独立したのは1964年です。私が派遣されたのは、英国国教会が持っている小児科と産婦人科のある100床の病院でした。当時、マラウイには医者は全国で60数人ぐらいしかいませんでした。その病院も医学部は卒業したけれども国家試験は受かっていないというお医者さんが1人。しかもその人も病気で休んだままの状態でした。

朝になりいつまでたっても回診が始まりません。回診とは、お医者さんが患者さんを見回り治療の方針をだすことです。総婦長さんに聞くと「あなたがやるのです」と言われ驚いてしまいました。いきなり何んでもやることになり、熱帯医療の医学書を片手に必死に聴診器を持ちました。

予防注射も行き届かない国では、はしかで2日に1人死んでいくのです。平均寿命は40才ぐらい。間もなく私はマラリアになってしまいましたが、高熱の中でも教科書は手放せませんでした。人間の生死はどうしようもないものもありますが、酸素さえあれば、保育器さえあれば助かったのにという悔しいこともたびたびでした。

ここの病院には英国国教会から送られて14年間もボランティアをしている女性がいました。私達、青年海外協力隊員は当時、200ドルの生活費を国からもらっていましたが、彼女は教会から80ドルの手当でした。ところがその80ドルの中からさらに中高生の奨学金のために寄付をしていました。それこそ全てをアフリカに捧げているのです。

「どうしてそんなにがんばれるのか」と聞くと、「神様、どうぞこの体を通して仕事をして下さい。といつも祈っているのです」との答えでした。私は彼女からボランティアとしての原点を教えられたと思っています。現在、私は主人と共に民間ボランティア団体に所属して活動をしています。政府間で話し合われる公的援助も、実際に現地に行くと、本当に必要なものはもっと別のものではないかと思うことがあります。

例えばスリランカで総工費70億円をかけて未熟児医療の病院を建てましたが、1200gの赤ちやんが2・5sで退院してもその後が育たないのです。それよりも簡単な保育器をたくさん増やしたり、公衆衛生を中心とした教育から始めた方がいいのではと思います。援助とは、その国の文化を壊さないで、その国の人が自分達で生きて行けるよう、つまり自助努力を促すことが大切です。現在は民間ボランティアとして衛生指導などを始めたところで、主人と共に試行錯誤の毎日です。
                    ◇

安藤さんがアフリカに渡ってすでに十数年。青春時代の全てを投じ、アフリカ、アジアを16ヶ国回り、マラリアには、風邪をひくように7回もかかったそうです。「私は肉親がいるので日本に帰ってきますが、どこの国も皆同じです。私は帰巣本能が少し足らないのかもしれません」と、こともなげに笑われました。

藤波英子
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(SHINZENしんぜん)海外医療奉仕ができる病院をつくろうと150人が協同出資

 海外医療奉仕ができる病院をつくろうと150人が協同出資(SHINZENしんぜんいのちの輝き)より

上崎 道子  一心病院 院長  92年9月

 一心病院は、22年前に海外に医療奉仕ができる病院をつくろうということで150人の協同出資で始めました。 銀行は、『150人もの協同出資なんて、すぐに分裂するに決まっています。そうしたら誰がお金を返してくれるんですか』と(笑)。
でも分裂することもなく、今では分院も4つできました。

 病院の海外医療奉仕の中でも、大きな反響を呼んだのがインドシナ難民への活動でした。難民キャンプは、二畳ぐらいのところに一家が暮らし、電気も水道もなく、1日に2杯の雑穀の主食とスープ、それにバケツ1杯の水が配られます。40度くらいの蒸し暑い中に、人がひしめいているのです。その中での医療奉仕は忘れられません。

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 インドシナ難民救援医療は、国連が難民終了を告げた年まで12年間続けました。民間病院が12年もの間、医師や看護婦を送り続けたということは、驚嘆に値するといわれたものです。さらに、キャンプの難民よりも、もっと貧しいタイの農民への医療奉仕に出かけたこともありました。国境沿いは、すぐ近くに内戦がある状態だったそうです。

 現地で感じたことは、日本は本当に豊かな国だということです。
日本でのわずかなお金は、何十倍にもなり、薬や食物が買えるのです。そして多くの人々が助かるのです。

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 皆さんもボランティアをしていらっしゃるそうですが、ぜひ身近にいる外国人の方に、ちょっとした心配りをしてください。彼らは、日本では物価が高いので生活をきりつめています。特にごちそうでなくても食事に招いたり、衣料をあげても、とても喜んでくれます。来日する外国人達は、貧しく見えても帰国すれば指導者になるエリート達なのです。

 ところが、その外国人の多くが帰国した時、反日家になっているというのです。ボランティアというのは、愛情の伝達だと思うのです。昔、盲人の方々と一緒に老人ホームに行って指圧の奉仕をしたのですが、盲人の方達にとって、それは大きな喜びとなりました。人間は誰でも人に尽くしたいし、役に立ちたいのです。されるよりも、してあげたいというのが、人間のより本性だと思います。

 そして奉仕をしているように見え、実のところ、むしろその方々から学ばさせてもらっているのです。


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SHINZEN(しんぜん)共に汗して働き、変わらない心で愛し続けた日々パパ、ママと泣きじゃくりながら送ってくれたパプアニューギニアの人々(しんぜんいのちの輝き)

SHINZEN(しんぜん)講話集6
 私は国際救援友好協会のボランティアとして、農業指導と青年教育をしていた主人とともにパプアニューギニアで7年間を過ごしてきました。

 パプアニューギニアは、オーストラリアとフィリピンの中間に位置する島で、1975年にイギリスから独立しました。国といっても、700部族から成り、700の言語があります。国会でも通訳をつけないと相手が何を言っているのか分からないということもしばしばあり、部族間の争いが起こっています。

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首都には近代的なホテルもありますが、山岳地帯の生活は、よくテレビなどで紹介される未開の生活そのもので、お金のいらない世界です。女性は干し草のスカート一枚、男性は筒状の物を局部にあてているだけ。

50年前まで本当に人喰い人種がいた国で、血を見たら血が騒ぐというのか、普段穏やかな人もカッとすると何をするかわからないところがあります。部族争いも、100人殺されたら100人を殺し返すまで続きます。個人のモラルは低く、嘘をつくのも盗みも平気でするし、日中、町中で女性が強姦されるという事すら起ってしまいます。婚姻は力ある人は一夫多妻です。

こういうと何か救いようがないようですが、これは貧しさと、教育があまりにもされていないためで、そういう価値観の中で生きているという事なのです。

私達が最初に入った所は、首都ポートモレスビーにあるボロコ市から18km離れたイグアラ農園でした。ここは、半年間は全く雨が降らないという所でした。雨が降らない時期は、ポンプで川の水を汲み上げて畑にまきます。ポンプが盗まれてしまうので、川に設置したままにしておけずそのつどポンプを運びました。そのうちに、その労力も大変なので、盗まれないようにセメントで固定してしまいました。

その年のトウモロコシは大豊作でした。ニューギニアは潜在的には豊かな土地で、大家さんの子供が食べていたトマトの種が庭に落ち、水も肥料もやらないのに、いつの間にか大きくなっていたこともありました。

ポーナッツ、パイナップルやチンゲン菜など、少し土地を耕せば多くの収穫を得られるはずですが、それをする意欲が無いのです。豊かさへの憧れはあるけれど、その日暮らしがみについてしまっています。一夫多妻の大家族社会は、皆家族といったところがあり、職がなくなっても皆で寄り合いながら何とか生きていけるのです。

第二次世界大戦中、日本兵はニューギニア人に米の作り方を教えたそうです。ある日本の学者がニューギニアの地質は米作に適していると発表しましたが、オーストラリア政府はそれを全面的に否定しました。何故ならオーストラリアは年間5億円の米をニューギニアに輸出しているからです。相手国を思って技術を提供するということがされていないのです。

政府では、国の将来のために、教育に目を向け始め、13年前にやっと大学をつくりました。小学校には教科書もなく、多くの人が読めないし、書けないけれども、他の部族の言葉や英語など四つぐらいの言葉を巧みに話します。

私達が暮らしていた村は、ギャングがいるような所で、実際に4回も襲われましたがこうして生きて帰ってこれました。白人に長い間支配され、奴隷のように扱われていた経験がそうさせるのか、恨みをもたれたら、必ず殺されてしまうというところがあります。

そういう村で暮らすのに銃で身を守ろうとしても無理なのです。私達を理解してもらうしかありません。人の心を動かすのは、変わらない姿しかないのです。何回言っても分からなくても決して怒らず、共に汗して働く。嘘をつかれても裏切られても変わらない心で愛し続けるしかないことを知りました。

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ニューギニアの人は、一方では純粋で、真実のもの、いいものに触れるととてもいい方向に変わります。経済の援助も必要だけれども、そうした心の教育が何よりも大切ではないかと思います。

夫は13年間、私は7年間、小さな子供二人を連れてのニューギニアの生活は、神によって守られてきた日々でした。帰国する時、農場で知り合った多くの人々が飛行場の手すりにしがみついて、「パパ!ママ!」と泣きじゃくりながら送ってくれた姿は忘れられません。パプアニューギニアをはじめとして、世界は、心ある人材を必要としています。

  市川 千代子氏 国際救援友好協会 93年9月

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