SHINZEN(しんぜん)の「共にのつどい」の名前には「共に生き、共に考えよう」という意味がこめられています。 SHINZEN(しんぜん)では毎月、施設の先生、あるいは障害者ご本人や、お母さん、他のボランティア・グループの方々をお呼びしてお話を伺っており、その内容は、どれも感銘深いものばかりでした。 講師の方は、淡々と語りながらも、一つ一つの言葉の中には、ほとばしるような思いがあり、私たちSHINZEN(しんぜん)スタッフにも熱い情熱が伝わってくるのです。 時には、胸を切り裂かれるような悲しみ、苦しみの淵に立ちながらも、それを超えてきた道のりは聞く者の心をゆさぶりました。 どうやってその壁を越えたのだろうか。どうしたら、そんなにも変わらない心で尽くせるのだろうか... そこには、生きていく上で大切なものが珠玉のようにきらめいていました。 SHINZEN(しんぜん)ではこれから、ブログを通して「共にの集い」の内容を紹介していきます。

SHINZEN(しんぜん)キリスト者としての使命感

SHINZEN(しんぜん)-いのちの輝きより

キリスト者としての使命感に燃えた賀川豊彦の生涯

「世界に平和を来たらせて下さい」賀川豊彦は、ノーベル平和賞の候補にも上がったことのある、国際的に知られたキリスト教伝道者です。そして貧しい人々の友でありました。人を不幸にする社会問題を解決したいという考えから、労働運動、政治運動、協同組合運動など様々な活動をしています。多岐にわたる活動の原動力は、キリスト者として、人々を救いたいという思いからでした。そしてキリストの愛を、一人でも多くの人に知らせたいという使命感でした。ボランティアの先人と一口に言うには、あまりに多面な活動をしてきた人ですが、その生涯をたどってみました。
                    ◇
賀川豊彦は明治21年7月10日、父賀川純一、母かめの次男として神戸市に生まれました。父は徳島県の素封家の三男で、一時は政界で活躍しましたが豊彦が生まれたのは、実業家として成功している頃でした。母かめは元芸者で本妻ではありません。本妻には子がなく、かめとの間に4男1女がいました。豊彦が4才の時、ふとした風邪から父が亡くなり、母かめも、その2ヶ月後に亡くなり、豊彦は徳島の賀川家の本妻に引き取られました。

豊彦は、幼少の頃から成績は抜群でしたが、自身の生まれには悲しみをもっていました。「淫乱の巷から呼び出され、十字架のふもとに立たされた」と、後年、語っています。徳島中学校に入学した豊彦は、16才の時、マヤス博士(アメリカ人宣教師)より洗礼を受けます。その時、彼の耳には、「汝、純潔を求むるか、もし汝が、汚れかかった心を拭い清めて純潔の生涯に入りたいと思うならば、野に咲く百合の花の気持ちになって、天地を見直せ」という、神の声が響いたそうです。

その後、明治学院高等部神学予科から神戸神学校に進みました。生家が破産した豊彦を、物心両面に援助したのはマヤス博士でした。神戸神学校在学中、転機が訪れます。肺を病み、死線をさまよい医師から余命2年と宣告され、どうせ死ぬなら、よいことをして死のうと、神戸新川の貧民窟に身を投じ、伝道活動を始めたのです。豊彦21才の時でした。以後、貧民窟での生活は十数年にわたりました。そこに暮らしている人々は、浮浪者、売春婦、前科者、アル中、日雇い労働者などでした。ケンカ、殺人が絶えることのない地でしたが、中でも心を痛めたのは、貰い子殺しでした。

貧しい生活から子育てができない人々が、他人にお金と生まれたばかりの子供を渡し、栄養失調にして死なせてしまうのです。豊彦はそうした子を引き取り面倒を見たり、日曜学校を開いて教育をしました。狭い家に、浮浪者や病人を泊まらせ、トラホームや疥癬などに悩まされ続けました。

そうした生活の中、豊彦は生涯の協力者であり、良き伴侶のハル夫人と出会ったのです。ハル夫人は豊彦と共に奉仕活動をし、巡回点眼中、トラホームに感染し右眼を失っています。夫人との間には1男2女が恵まれました。27才の時、豊彦は米国留学をし、神学をさらに学びました。アメリカでは、大衆デモを目の当たりにし、貧民を救うには、救貧より防貧であると痛感したのもこの時期です。

帰国した豊彦は、無料診療所の開設。労働者、農民の自由と幸福のための労働、農民運動の指導、あるいは普通選挙運動にのり出したり、協同組合を組織したりと、精力的に活動しました。その全ては貧しい人々を救いたい思いから出たことでした。

しかし、豊彦の活動の中心は、何と言っても伝道活動です。長く労働・農民運動に力を入れていましたが、その人々が共産主義に走ったり、酒に溺れていく姿を見、やはり霊性が大事であると悟り、37才の時、「イエスの友会」を結成しました。その方針は、「イエスにあって敬虔なること、貧しき者の友となりて労働を愛すること。世界平和のため努力すること。純潔なる生活を貴ぶこと。社会奉仕を旨とすること」と、あります。

 彼は、日本人に広く福音を伝えるために、「100万人救霊運動」、「神の国運動」を決意し、閉鎖的であった教会に新風をおこし、教派を超えて、全日本キリスト教会全体で協同伝道する道を開きました。これは日本キリスト教会の歴史の中で、最も成功した伝道活動でした。

 さらに世界各地に講演や伝道にも出かけました。米国、カナダ、ヨーロッパ、南米、中国、インド、イスラエル、オーストラリアと数回にわたり世界各地を回り、世界的名声を得ました。戦争中は、反戦運動により、検挙された豊彦でしたが、戦後は、新生日本のためさらに情熱的に国内、海外に伝道に出かけました。

その日程は、過密で殺人的なほどでした。いつも病気をかかえていた彼の肉体は、キリストの使者としての使命感によって支えられてきましたが、ついに四国伝道の路中に倒れ、昭和35年4月23日、72才にして静かに生涯を閉じました。彼の最後の言葉は、「教会を強くして下さい。日本を救って下さい。世界に平和を来たらせて下さい」というものでした。(参考文献・林啓介「炎は消えず、賀川豊彦・再発見」)

藤波英子

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SHINZENしんぜん)マザーテレサの足跡と思想。「愛は自分が痛むほどに与えるもの」

マザーテレサの足跡と思想。「愛は自分が痛むほどに与えるもの」SHINZENしんぜんいのちの輝き

1997年9月5日、1人の女性がインド、カルカッタで亡くなりました。「スラムの聖女」マザーテレサの葬儀は、外国から帰化した民間人としては、異例の国葬として行われました。

 マザーテレサは1910年8月26日、旧ユーゴスラヴィア、マケドニアのスコピエでボヤジュー家の第三子として誕生しました。
翌日、洗礼を受け、アグネス・ゴンジャと名付けられました。父は成功した企業家であり町議員でもありました。

 母のドラナは、きわめて宗教心の篤い婦人でした。
アグネスが、内なる神の召命を聞き、18才で家族、故郷と生涯別れてベンガル地方のミッショナリーとなる決意を打ち明けた時、ドラナは一昼夜祈り続け、そして母としての感情を鎮めて「あなたの手を主の御手の中におきなさい」と言ったそうです。

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 ロレット修道会での修道名はシスターテレサでした。テレサは、カルカッタ東部にあるエンタリーのロレット修道会経営の高等女学校に赴任し地理と歴史を20年近く教え、最後の数年間は校長を務めました。

 一九四六年、テレサ36才の時、カルカッタでヒンドゥー教徒とイスラム教徒との間で闘争が起こり、路上には死体があふれました。テレサが、第2の神の召命を聞いたのはその直後でした。それは、神が魂の深みに呼びかける声でした。「すべてを捧げてスラム街であのお方、キリストに従い貧しい人の中でその方に仕えなさい」と。

 シスターテレサは、ロレット会を離れました。「ロレットを出ることは大きな犠牲でした。私はそこで霊的な要請を受けて、修道女になったのです。かけがえのないものだったのです。それに私は教えることが好きでした」。テレサがいかに慕われていたかは、献身をしてテレサのもとに集まった最初の10人は全て生徒だったことからも分かります。

 その後、よく知られる「貧しい人達」に仕えるためにつくられた「神の愛の宣教会」を設立しました。こうしてシスターテレサは、マザーテレサになりました。そして「死を待つ人の家」、ゴミ箱に捨てられた赤ん坊を連れてきたことから始まった「孤児の家」、神罰として忌み嫌われ、路上に捨てられ死んで行くしかなかったハンセン病患者が自活できるようにした「平和の村」など、それはまさに愛の奇跡の連続でした。
その活動はしだいに世界中から評価され、ノーベル平和賞など数々の賞を受けました。

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 「たとえ死にゆく人であっても、大切な、必要な人であると感じてもらいたいのです。人間からも神からも大事に思われていることを知ってもらいたいのです」。

 病人は、宗教、人種の差別なく受け入れられましたが、一人一人の人生と宗教は大切にされ、亡くなればそれぞれの宗教の方去で葬られました。病人達は確実に何かが、心の中で何かが変わっていったといいます。ハンセン病者は、相変わらずハンセン病者であっても、愛を受け必要な人と認められ、たとえ死の間際であっても、人間としての尊厳を取り戻すのです。

 以前、マザーが来日した時、「愛とは、自分が痛むほどに与えるもの」と言っていました。神の召命により、温かい家庭を捨て、満たされていた修道会からも出て、スラムヘと導かれていったマザーですが、その内面には痛むほどの孤独と忍耐と苦悩があったことでしょう。

 それを超えてあまりある喜びは、キリストへの愛でした。マザーは、テンプルトン賞を受けた時こう言っています。

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 「私達は、キリストは見えませんから、私達の愛をキリストに言い表すことはできません。でも隣人なら見えます。キリストにして差し上げたいと願うことを、隣人にはして差し上げることができるのです。神が私達をお使いになれるように、神に心を開きましょう。愛を行為に表しましょう。家庭で隣近所で、往来でまず始めましょう…」。

 キリストのブルドーザーと呼ばれた小さな聖女の行いは、いつまでも語りつがれ、又、私達に問いかけ続ける事でしょう。(参考文献、和田町子著「人と思想・マザー・テレサ」)

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SHINZEN(しんぜん)30年間に3000人の孤児達を育てた、母、田内千鶴子を偲んで

30年間に3000人の孤児達を育てた、母、田内千鶴子を偲んで(しんぜん いのちの輝き)

尹 基 「故郷の家」理事長 96年5月

 日本で唯一の韓国、朝鮮在日一世のための特別養護老人ホーム「故郷の家」の理事長・尹基(日本名・田内基)さんをお迎えしました。
先生は、韓国、木浦の「共生園」で孤児達を育ててこられた尹致浩、田内千鶴子夫妻の長男です。当日はご両親のこと、お母さんの生き方が理解できず反発し続けた子供の頃の事、そして現在の活動など熱っぽく語ってくれました。

 父と母が知り合った頃、日韓関係は最も悪い時代で日本が朝鮮半島を植民地支配をしたために土地を失い、親を失い孤児が増えていました。
そんな孤児達30〜40人と共に暮らしていたのが父でした。「木浦共生園」という孤児院の園長であり、キリスト教の伝道者であった父は世間から乞食大将と呼ばれていました。坊主頭にわらじ履き、電気も水道もないあばら家で子供達を育てていたのです。

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 母は、クリスチャンの恩師から「この国に孤児があふれているのも日本が原因です。その子供達の為に、何んでもいいから奉仕をしてくれませんか」と言われ園を手伝うようになりました。

 母は朝鮮総督府の役人の娘で、1919年7才の時に日本から両親と共に木浦に渡ってきました。何不自由なく育った母にとって園の生活は驚くほどの極貧生活でしたが、手を洗うこと、顔を洗うことから教えたそうです。

 2年後、2人は結婚をしました。クリスチャンの父にとって母は神様から送られてきた伴侶だと思ったのでしょう。母も父を心から尊敬しました。しかし当時、韓国人と日本人が結婚することなど考えられない時代で、周囲の人々は大反対しました。その中で祖母は「結婚は人間と人間がするもので、国と国がするものではない。天国では国はなく皆兄弟姉妹。あなたが好きなら結婚していいと思いますよ」と励ましてくれたそうです。

 結婚して数年、日本は敗戦し植民地支配も終わります。そして、日本人は、一夜にして敗者に。それまでの積年の恨みが爆発して、日本人は各地で暴行をうけました。共生園にも村人が興奮してつめかけました。
日本人の母と、日本人と結婚した父を殺しにきたのです。

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 ところがその時、彼らの前に立ちふさがったのが孤児達でした。彼らは、スクラムを組んで「お母さんはたとえ日本人でも、私達のオモニ(母)です」と2人の命を守ってくれたのです。この時、日本人田内千鶴子は死んだと思ったそうです。そして、命ある限りこの子らのために捧げると誓ったのです。

 その後、韓国動乱が起こり両親の困難はさらに続きました。共産軍が木浦まで入ってきて、クリスチャンである父は人民裁判にかけられ死刑になりそうになりました。その後、韓国軍と国連軍の巻き返しで、北朝鮮軍は撤退しましたが、今度は南からスパイ容疑をかけられ投獄されてしまいます。

 疑いが晴れやっと解放されて帰ってくると、戦争孤児にあふれた共生園では極度の食料不足で子供達が次々に倒れていました。危険を覚悟で食料調達に出かけた父は何者かによって拉致されてしまいます。北によるものか南なのか分かりませんが、とにかく父はそれ以来帰ってこなかったのです。母はその父を生涯待っていました。なぜなら父の死を見ていなかったからです。父が帰ってきた時、共生園がなかったら申し訳ないと守り続けてきたのです。

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そして、30年間に3000人の孤児達を育てました。
地味に地味に生きた母でしたが、韓国孤児の「オモニ」と慕われ日韓国交が正常化する以前の63年に韓国政府から文化勲章もいただきました。

 しかし、私の心はいつも不満でした。母は自分の子(2男2女)も、孤児達と同じ条件で育て、寝起きも全て兄貴達(孤児)と一緒でした。
私はいつも母の視線を待っていましたが、母が私を振り向くことはありませんでした。

 「お前は、橋の下で拾ってきた子だから一緒に寝ないんだよ」と言われたり、「チョパリ(日本人の蔑称)」と言われていじめられてもかばってくれません。「なんと嫌な母なのか」私は、母が右と言えば左、左と言えば右と母を困らせる事ばかりやりました。

 ある時、村人が「お前のお母さんは立派な人だ、自分の子さえ孤児と一緒に育てている」と言うのです。自分がこんなに悲しいのに、そういうことで母はむしろ人々からほめられている。「なんというインチキだ」。くやしくて石を投げ、スープに砂利を入れたこともありました。
学校をさぼっては海に行って魚をとって食べていました(笑)。

 そんな反発ばかりしていた私が、本当に母と心を通わせたのは、母が癌で病の床についてからでした。私は大学で福祉を学び、反発をしながらも母のかたわらにいました。その母が長年の無理がたたって倒れたのです。

 病床の母に「お父さんが帰ってくるから長生きしてね。お父さんはきっとお母さんをほめるよ」というと、50過ぎの母が本当に少女のような笑顔になり、「そうかしら、ほめてくれるかしら」というのです。そして「あなたには何もしてあげられなくてごめんなさい。それなのにこうして看病してくれるなんて……」と言いました。私は胸がつまりました。

その母がある時から言葉が変わったのです。死の間際、日本語で「基、もとい」と呼び「梅干しが食べたい」と言いました。その時の私の驚きは言葉で言い表わせません。韓国語を話しチマ・チョゴリを着てキムチを食べ、韓国人になり切りそれを誇りにしていた母。その母が本当に話しやすい言葉は日本語だったのです。

そういう全てのことを捨て、おやじのためにがんばってきた母だったのだと分かった時、私はその大きな愛に打たれ涙を流して「どんなことがあっても、共生園は守るから安心して」と言っていました。そして母は57才の誕生日に亡くなりました。葬儀には3万人もの木浦市民が参加し、母はついに父の元へと旅立ったのです。しかし、その母は今も私の心の中に生きています。

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 現在、尹先生が理事長をしておられる「故郷の家」は、在日一世の韓国人のお年寄り達が、思う存分にキムチを食べ韓国語が話せる終の住みかです。この老人ホームをつくるきっかけは、在日の老人がアパートで1人で死亡し、半年たってから発見されたニュースを見たことからでした。こんな淋しい死があるでしょうか。

日本の行政では、老人5000人に一つの特別養護老人ホームをつくるよう努力しています。今、日本には70万人の在日韓国人がいますが、そのうち10%が老人だとしても、14ヶ所の特別養護老人ホームが必要だということになります。

 先生にとって今、一番つらいのは入所希望者が多くて、毎日のように断わりを言わなければならないことだそうです。在日韓国人が、戦争、連行、異国での居住など、日本によって運命を変えられたことを思うと、これらのことは、私達日本人の問題でもあるのです。居住の多い関西、関東での施設の設立が望まれるところです。

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SHINZEN(しんぜん)石井十次の足跡。

石井十次の足跡。
「苦難の中にイエス様が現れて」SHINZEN(しんぜん)いのちの輝き

石井十次は、世界的にも有名であった岡山孤児院の創立者です。石井が孤児院を始めるきっかけは、明治20年、医学生の時、巡礼の母親に子供を託されたことから始まります。石井は子供に、いろはから教え、厳しい教育をしていきます。

 そのうち、5人、10人と子供が増え、お寺を借りて対処しましたが、翌21年には、120人という孤児が集まっていたそうです。クリスチャンであった石井は、このことは神から与えられたものであると悟り、ついには医学の道を捨て、孤児院長に専任します。

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 孤児院の運営は、イギリスのドクターバナードス・ホームに範をとり、労働自活を宣言し、子供達に民芸品を作らせたり、クリーニングなどの事業をして自活を目指しました。その頃、悲しい出来事がありました。石井を支えてきた奥さんが、当時、流行していたコレラにかかり苦労の中、亡くなってしまったのです。

 それ以後、信仰や行動だけではだめで、やはり協力者が必要であると考え、1万人の会員を集め、経営を安定させました。そうした中、石井を生涯バックアップしてくれた倉敷紡績社長の大原孫三郎と出会います。

 さて、明治30〜39年に東北で大凶作が起こります。この時、石井は無制限収容を宣言し、何と、1200人の子供を収容してしまいます。岡山孤児院の定員は400人でしたが、石井の考えは、ニーズがあるのならば、ともかく受け入れようというものでした。

 その頃、石井は肝臓を悪くし暗室療法をしていました。その真っ暗な部屋にイエス様が現れてきたそうです。イエス様は肩にかごを担ぎ、そのかごいっぱい子供が入っていました。その後ろから、大人達がどんどん子供を入れています。イエス様は石井に「お前も入れろ」と言いますが、「もう、いっぱいです」と言うと、「まだ入る」と言うのです。そこで子供を入れ続けると、本当に全部入ってしまったというのです。その出会いの直後に、アメリカからの寄付があり大収容の急場をしのげたのでした。

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 その後農家を土地ごと買い、大収容ではなく小さな家に保母を1人つけ、10人ぐらいの子供が生活するという小舎制を始めます。孤児院が創立されて20年くらいたち、多くの子供達が巣立っていきましたが、ここで育った子供達のその後は大変でした。当時、今よりももっと差別の強い時代です。孤児院出身の子供達が大阪のスラムにたくさん落ち、その子達の子供が再び孤児院に預けられていることが分かり、石井は大変にショックを受け、また反省します。

 そして集団養育そのものをやめ、里親を全国につくろうとしますが、当時の世間は受け入れてくれません。そこで彼は、自分の故郷の九州宮崎県の茶臼原に300町歩の土地を買い、成長した子供達を里親にしようとしました。

 一方で、大阪の愛染橋地区に、保育所、夜学校、道場館などをつくりセツルメント活動を始めます。そして岡山は引き払いました。そうした新たな活動を始めた後、大正3年1月30日、50歳で永眠しました。石井が亡くなって、すでに半世紀以上たっていますが、その理念は今も我々の心に訴えてくるものがあります。

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 石井は人を恐れませんでした。いかなる高位高官の人にも、また殺人犯にも臆することはありませんでした。恐れるものは、ただ天であり、神でした。

 自信過剰で人の意見を聞かない人ではありません。彼は、毎朝、長時間祈り、また人の話にはよく耳を傾けています。自己反省の強い人であり、不安定な面もありました。それだけに、神の使命を感じると猛然と行い、誇りに満ちていたのでしょう。

 現代、専門化し職業化したソーシャル・ワークの中で、かえってこのような人間への愛情と誇りが失われてしまったようです。人間の人間に対する専門職業の中で、その本質である愛情を失うことは致命的です。
歴史を超えて石井が我々に訴えているのは、この人間愛ではないかと思います。
柴田看守 著書より 大阪ボランティア協会 理事 91年12月


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